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第一部 生いたちの記


一 雪のふるさと

雪 の 山 村
私 の 家
父 と 母
幼 少 の こ ろ
農 家 の 正 月
山 村 の 小 学 校
高 等 小 学 校
入 学 試 験

二 加茂農林とその教育

加 茂 農 林
寄 宿 舎 生 活
済 美 組 合
青 春 の 思 い 出
林 科 と 参 天 寮

三 青雲の志は空し

東 京 の 夜 学
運 命 の 暗 転
故 郷 で 静 養

四 加茂で再出発

林 業 助 手
西洋史の文検をめざして

五 有本誠作先生と赤星校長

加茂農林と有本先生
有本先生の教育愛
赤 星 校 長

六 西村大串先生と朝学校

西 村 大 串 先 生
加茂朝学校の教育
正法眼蔵と体達録

七 高田中学校と非常時の教育

高田中学の教諭
家 庭 を も つ
昭和初期の思想界
満州事変と非常時の教育
昭 和 の 世 相

八 国民精神文化研究所と
紀平正美先生

国民精神文化研究所
紀平先生と行の哲学
富永半次郎先生との出会い

九 橋田邦彦先生と行としての科学

橋 田 邦 彦 先 生
科 学 と 科 学 者

十 高等文官試験に合格

日支事変と非常時
高等文官試験をめざし
高田中学を去る

十一 内務省勤務と病床生活

内 務 省 勤 務
肺結核で倒れる
郷 里 で 療 養
父 の 病 死
葉   隠

十二 晴 嵐 荘

療 養 所 の 生 活
胸郭成形手術
外気小屋の生活

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第一部 生いたちの記

P12

一 雪のふるさと

雪 の 山 村
私が生まれた新潟県北魚沼郡入広瀬村は福島県との県境の山村である。鮎で名高い信濃川の支流・魚野川のさらに支流に破間川(あぶるまがわ)という清流があり、この水源に入広瀬村がある。総面積は27,262ヘクタールと広いが、大部分は山地である。耕地や宅地は371ヘクタールで、2パーセントに足りない。人口は3,000人位の小さな村である。

北方には、新潟県南蒲原郡下田村(しただむら)との境に、守門(すもん)山(1,538メートル)と烏帽子岳がそびえ、それから東に浅草山、鬼面山、毛猛山などの越後山脈の高い山々が福島県南会津郡との境をつくっている。南方には里山に続いて中の岳、駒ヶ岳の山々が遥かにそびえ、西は低い里山を隔てて隣村の守門村がある。その背後に古志郡の二十村郷との境の小高い山々があって、周囲は山の屏風に囲まれている。僅かに西南の一角に破間川の両岸が開けて、遠くに上信越の山々が見通せる。この平地の道を通れば約五里(20キロ)で小出町に至るのである。

今では、小出から国鉄只見線と、国道二五二号線の舗装道路が通じているが、私の子供の頃は歩くよりほかには交通のできない陸の孤島ともいうべき辺地であった。

破間川の川沿いの両岸に段丘状の平地があって、右岸が村の中心地の大字穴沢、左岸に大字大栃山の二部落が向かい合い、間につり橋がかかっていた。川沿いに二里半(10キロ)ほど遡ると県境の部落大白川がある。穴沢から、橋の右手の坂道を登ると、大字平野又(ひらのまた)の部落に出る。さらにそこから半里(2キロ)ほど急な坂道を登ると、私の生まれた大字横根の部落がある。段々の畑と田が山裾にへばりつくように広がり、その間に点々と八〇戸位の家が散らばって建っていた。その上の方にはさらに田子屋(たごや)、芋鞘(いもざや)という二つの小さい部落があった。


入広瀬村略図

入広瀬村は日本でも最も雪の多い豪雪地帯で、毎年三〜四メートル位の積雪がある。最も多い年は積雪六メートルの記録がある。三メートル以下は浅い方である。大抵十一月の初めから降り出して、雪が消えるのは五月になる。半年は雪中の生活である。

川端康成の『雪国』の舞台の湯沢町や、江戸時代に越後の雪と雪中生活を描いた『北越雪譜』の著者鈴木牧之の塩沢町よりも、もっと雪の深い山村である。

冬至に桑の木が雪で隠れる年は大雪になるといわれていた。根刈の桑の木は約一メートルで、もう冬至頃にはそれ位の積雪がある。それ以降一月、二月はほとんど毎日雪が降り続く。


雪にすっぽりと埋まった村

雪国では、私の子供の頃は毎朝家の前の雪を払って、隣の家との境まで、かんじきをはいて道を踏まなければならない。部落と部落の間は隣の部落との境まで、それぞれの部落の人が二軒ずつ組で順番に道踏みに出なければならない。子供でも小学校の上級になると道踏みをやらされる。

大人は屋根の雪を下ろさなければならない。大雪には一日で全部下ろせないので、順次片づけて行くと、また前に下ろしたところが積もって、毎日雪を下ろしていなければならない。五回も六回も下ろすと、屋根よりも積んだ雪の方が高くなる。それで、村の人は雪下ろしとは言わないで雪掘りと言っている。

学校やお寺の雪掘り人足にも出なければならない。三月までは雪を相手に悪戦苦闘である。それだけ苦労しても、春になって雪が消えれば努力の後には何も残らない。しかし、雪を片付けなければ、軒が壊れたり、垂木が折れたり、悪くすれば家がつぶれる。

これだけ苦労をしなければ、雪国では生きていられなかったのだから、貧しいのは当然である。今では道路は舗装され、ブルドーザで除雪されるが、それでも屋根の雪は自分で始末しなければならないので、雪国の生活は大変である。

私 の 家
私はこの山村の農家に父松尾勝蔵、母みちの長男として生まれた。三男四女の三番目である。家は代々横根部落の百姓であるが、古いことははっきりしない。家の呼び名は、伊之助と呼ばれていて、伊之助からは過去帳も墓も代々はっきりしていた。幕末の頃には名主をした時の書類なども残っていた。

私が幼少の頃は、曽祖父の栄四郎が生きていた。明治二十二年の町村制施行の時は、横根は入広瀬村には入らず、隣村(現在守門村)の大字高倉とともに高根村となった。栄四郎はその時の村長を勤めていた。部落の図面には高根村長松尾栄四郎とあった。二十六年に高根村が解消し、横根は入広瀬村に入り、高倉は上条村になった。その時、栄四郎は村長をやめた。

祖父荘四郎は婿だが、私が生まれる前の明治三十五年に死に、同じ年に曽祖母も死んだ。私が幼少の頃は父が戸主で、曽祖父は隠居であったが、達者で、野菜作りや、山に杉苗などを植えていた。大正三年私が小学校二年の時に八〇歳の高齢で死んだ。祖母は隠居部屋にいて、家の仕事はほとんど手伝うことはなかったが、山が好きで、春はわらび、ぜんまいなどの山菜をとり、秋にはあけびやぶどう、茸などを取りに行っていた。私どもも時について行った。

家は自作兼小地主で、住家は建ててから百年以上にもなる萱(かや)屋根の古い家で、真黒に煤(すす)けた手斧(ちょうな)削りの柱だけが太い粗末な造りであった。玄関は東北の雪国と同じように、馬屋と一緒になった曲がり屋造りで、本屋の裏に続いて中門(ちゅうもん)(納戸)と水屋があり、西側には池を隔てて土蔵があった。土蔵は米倉と味噌蔵の二戸前に分かれていた。

父 と 母
曽祖父の栄四郎は村長などもやって少しは学問もあり、漢籍などに名前を書いたのが残っていた。教育にも熱心で、父は子供の頃に七里(28キロ)も離れた長岡の誠意塾で漢学を習わされたが、大した長い期間ではなかったようだ。その後、村に来た元士族の先生について漢籍を習ったといった。

母と結婚後、徴兵検査に合格し、新発田の歩兵十六聯隊に入営し、現役に服した。間もなく日露戦争が始まり、予備役で召集され、新たに編成された村松三十聯隊に属し出征した。奉天付近の戦闘で、下肢に貫通銃創を受けたが、そのまま軍務を続け、講和成立後軍曹で除隊した。勲七等、功七級で、金鵄勲章を授けられた。当時は金鵄勲章の功七級には、年額100円の年金がついていた。この軍隊のことが父の最大の自慢で、晩酌をやりながら、機嫌のよい時は戦地の話をした。平素は無口の父も、この時だけはなかなか雄弁で、軍隊や戦争の話を続けた。その頃のピンと鼻髭を生やして胸に勲章をつけた軍服姿は大変立派である。

父は温厚篤実という言葉のぴったりする律儀な人柄で、村会議員や区長などをやり、青年団や消防団の世話などもやった。村や部落の仕事には極めて熱心だったが、家の田仕事はほとんど下男任せで、忙しい田植や稲刈に出る位であった。

母は大白川の住安家から嫁に来た。祖父の実家と隣りであった縁故で嫁に来たようで、父が一七歳、母一四歳の時であったという。

住安家は村一番の財産家で、先祖は会津の黒川城主芦名氏の武将で、横田城主の山内氏の一族であった。芦名氏が伊達政宗に滅ぼされた時に片倉小十郎に追われて、山を越えてこの地に来て、この山中に落着き、姓を住安と改め百姓になったと伝えられている。祖父の若い時の写真に、「当家十七代」と書いてあるのを見たことがある。現在でも先祖のものという立派な大小が揃った刀がある。

家も立派だが、大白川の魅力は家の前に破間川の上流の清流があって、渕では水泳ができるし、川には鱒や岩魚(いわな)が沢山いた。山峡の別天地で夏は涼しい。私は小学校を終える頃から、夏休みには毎年のように行って川で遊んだ。

母は若い時に嫁に来て、父が戦争に行ったりして苦労もあったようだ。母は田や畑の仕事はほとんどやらないが、養蚕は母が責任者であった。くずまゆや玉まゆは自分で糸に紡いで、それで機(はた)を織って、家族の着る絹物は母が織ったものである。身体はあまり丈夫でなく、喘息持ちで、暖かい時節はよいが、冬は仕事を休んでいることが多かった。晩年は丈夫になって、九〇歳の長寿で亡くなった。

幼 少 の こ ろ
私は父が日露戦争から帰った翌年の明治三十九年十二月十四日に生まれた。上二人が女の子で、凱旋して来て男の子が生まれたので、父はよほど嬉しかったのであろう、私は小学校に通うころまでは父に抱かれて寝た。時にはおんぶされたことも覚えている。父は家ではどちらかというと無愛想で、私以外の弟や妹などを抱いたり、遊んでやっているのを見たことはなかった。

私は幼児の時は母の乳が不足であったので、弱かったそうだが、小学校に通う頃には、割合に丈夫になって、わがままで相当の腕白ぶりも発揮するようになった。

この頃の山村の農家は一般に粗衣・粗食で貧しかった。白いご飯はお正月やお客をする時位で、平素は半搗(はんつき)米のご飯に味噌汁と漬物、魚などはたまに乾し鰊(にしん)か塩鱒(ます)がある位であった。それに、三食ともご飯というのは夏の農事の忙しい時位で、普段、二食は雑炊(ぞうすい)やおかゆのときが多かった。

家の生活も極めて質素だが、現金収入は飯米の残りを売った代金と、養蚕の収入位である。父は村や部落の仕事には極めて熱心で、家は部落の事務所のように人の出入は多いが、定まった月給を取る訳ではなし、家の仕事は田植の時と稲刈に少し出る位である。その上酒好きで、お客も多いので、内でも外でも酒を飲むことが多かった。それで金鵄勲章の年金はあっても家計は楽でなかったようだ。借金がかさむと杉の木を売ったり、田畑を少しずつ売ってやりくりをしていたようである。


日露戦争より帰還当時の父

このように、平素は家の仕事は余りせず、家におる時はお客相手か、一人で酒を飲んでいて、家計には余り役に立たないように見える父が、家長としての権威を示すのはお正月である。

農 家 の 正 月
稲の収穫が終わり、大根やかぶ菜や大豆などの取り入れが終わる頃は雪が降る。稲を米にする作業は雪が降ってから家の中で行う。その頃は脱穀機もなく、すべてが手仕事なので手数がかかる。すっかり作業が終わり、籾や米にして俵に入れて、土蔵に納めるのは一月になる。

お正月は、新暦の一と月おくれで二月である。米作業が全部終わって、家中の煤払(すすはらい)をやって座敷に畳を敷くと、それまで作業場のような家の中が正月を迎える準備ができる。

まず二十七、八日頃餅つきが行われる。大勢の男の人が前から水に漬けたもち米を早朝から蒸して、一度に五〜六升もつける大きな木の臼に入れ、餅につく。ついた餅は大きな板の台の上で、のし餅にし、五臼も六臼も次々につく。夜は正月用の野菜などをいろいろに切って、ご馳走の準備をする。

三十一日は年取りの日といって、午前中に家の中を清め、神棚のご幣やお神酒徳利の口飾りを、新しく白紙で一定の様式に作り、松飾りも作って供えるのは父の仕事である。松は雪が降らない日に五葉松の枝を切ってきておく。外には雪が多くて立てられないので、入口の柱や各部屋に飾る。そして、土蔵から箱に入った膳椀(ぜんわん)を持ってきて、正月のご馳走を盛る。

準備が終わると、家族全員が風呂に入り、着換えをして、玄関の大戸を閉め、錠をかけて、家族一同朱塗りの高足膳の前に並ぶ。父が一番上座に、次が長男、以下男と女が年の順に並び、下男達が次に坐る。祖母と母はその向かい側である。朱塗の盃に次々に酒を注いでもらう。膳椀は立派だが、中のご馳走は毎年同じ、野菜や山菜、豆腐、昆布などの料理が盛られている。必ず塩鮭の切身がつく。これがその頃の山村では最上のご馳走であった。

ご馳走がすみ、夜になると、父から全員にお年玉のお金と手拭が渡される。十銭か二十銭だが、普段お金などもらうことがないので、大変嬉しい。

元旦は午前零時が過ぎると、平素は一番遅い父が一番先に起きて、前夜新しく沸かしておいた風呂に入り、身を清め、次に家族が順番に入る。私は小さい時は父と一緒に入った。

父は風呂から上がると、火打ち石で切火をして、豆の木で炉に火を焚きつけ、それから神棚に全部燈明を上げ、餅を供える。

家族全員が着換えをして、座敷に坐ると、父は紋付の羽織に威儀を正して、床の間には、勲章と勲記を飾り、恭しく勲記を読み上げ、その後で、軍人勅諭を朗々と読み上げる。

それがすむと、お膳の上に鏡餅と乾柿、乾栗、昆布をのせたのを持って、一人一人頭の上に頂かせる。これで新しい年を一つ加えたのが実感される。そして炉の回りで、頂いた柿と栗を分けてもらって食べる。

それがすむと、男は提灯をつけて一同氏神様にお詣りに行く。雪道をこざいて、深夜の森の中の神社に着くと、社殿には大勢の人が上げた大きな蝋燭の火があかあかと燃えている。子供心にも森厳の気に打たれる。私は小さい時には下男におんぶされ、学校にいく頃には歩いて、毎年元旦にはお詣りに行った。

家に帰ると、女達によって雑煮の支度ができていて、一同高足膳で雑煮を頂く。

朝になると、家には部落の人が次々と年始に来る。座敷に上がってもらってお酒を出す。家で年始を受けるのは母で、父は紋付、袴でむらの主な家に年始回りをしてくる。

ついでに山村の正月の行事の主なものを書くと、一日から三日は餅を食べて仕事を休むが、二日は仕事始めで、朝のうち男は藁仕事を女は縫物の針の使い初めをする。昼近くになると、家から嫁に行った叔母や姉が夫婦で正月礼に来る。そして子供にはお年玉を渡す。

七日は七草粥を煮て、餅を入れて食べる。十一日は倉開きで、米倉の二階で男達がお神酒を飲んでくる。そして父と子供達は紀元節の式に学校へ行く。

十二日は山の神様の祭りで、鎮守様に木版を押して作った馬の絵を上げ、山竹で作った弓と萱か蘆で作った矢を供えて、それを射てくる。

十三日には小正月用の餅搗きと作祝いをする。作祝いは米の粉の団子をこねて、それで野菜類の形とか米俵、繭、農具など農作物に関係のあるものの形をつくって、これを瑞木(みずき)の枝につけ、それに藁の心に餅の小さくちぎったのをつけて、稲穂の形に作ったのを下げる。その下に鉈や鎌などの農具を並べて豊作を願う。

子供達はもよりもよりで組を作って、十日頃から雪の塔をつくり、十四日の日にその側に大人から雪の中に穴を掘ってもらって屋根をすだれや藁で作り、小屋をつくってもらう。雪はたいてい三メートル位積もっているので十分の深さがある。火鉢を持ちこみ、十四日の晩にはこの中で餅を焼いて食べたり、甘酒を沸かして飲んだり、塔の上に登って、大きな声で鳥追い歌をうたって鳥追いをする。

十五日の朝は、元日と同じように早く起きて風呂に入り、神様を拝んだ後、お宮詣りに行く。帰って来て小豆粥に餅を入れて食べる。

その後で、下男達は横槌(よこづち)に縄をつけて、田や畑の雪の上を引っぱって、もぐら追いをやる。また、梨や柿の木に作祝のだんごを煮た汁をもって行き、「なるか、ならぬか、ならぬと切るぞ」と鉈を振り上げ、「なりもうすなりもうす」と言ってだんごの汁をかける。

それがすむと、近所の人達が前日取り外した松飾りや藁を持ち寄って、前の畑の斜面の雪を掘って、上に松や藁で屋根をつけ、中に陰陽をつけた塞(さい)の神の像を藁で作って祀り、朝明るくなる頃に近所の人達が集まって、塞の神に燈明を上げて拝む。父はお神酒と盃を盆にのせて持って来て、塞の神に供えた後、近所の人達についでやる。それから小屋に火をかけて焼く。松の葉が残ると毒虫になるというので、全部残らぬように焼く。

十五日の昼食は年取りと同じように、家族一同高足膳で小正月の祝いをする。

十六日には、きな粉餅を食べる。

二十日には小豆粥に餅と団子を入れて食べ、足の三里に灸を据える。そして正月様を送る。これで正月の行事は終わるが、二十五日は仏正月といって仏様に油揚げやけんちん汁を上げる。

こうして正月一か月は、雪さえ降らなければほとんど仕事を休み、お祭り行事をやり、田舎なりのご馳走を食べて、骨休みと、楽しみをやって、家の伝統を守ってきた。しかし、戦時中からこうした行事もほとんど滅びてきたようだ。

またその頃の山村には、柳田国男の『遠野物語』にあるような、実話とも伝説ともつかぬような話が村人の間に語りつがれて生きていた。山には山の神がいるので、大きな椈(ぶな)の木の下に祀った石の祠(ほこら)に手を合わせて拝んでから山に入らなければならないとか、破間川の穴渕には河童がおり、胡瓜(きゅうり)を食べて川に入ると尻子玉を抜かれるとか、狐にばかされた話とかいろいろ聞かされた。

祖母は今日はお庚申だからお魚類を食べてはならぬとか、小豆飯を炊くとか、甲子(きのえね)だからご飯に大豆を入れるとか、お盆や彼岸には何と何を仏様に供えるとか、冬至には南瓜(かぼちゃ)を食べるとか、歳時記的なことをよく覚えていて、実行していた。また、祖母からは昔ばなしを語って聞かせてもらった。分家の婆さんは、私が遊びに行くと、本家の惣領ということで大切にして、むらのことや家の由来などをいろいろ話して聞かせてくれた。

こうした環境で農家の長男として育てられ、知らず知らず家と自分の責任というようなものを教えられた。幼少の頃はわがままの一面、案外臆病で神経質のところがあり、特に夜の暗い時は恐ろしかったし、死人とか幽霊が怖かった。

山 村 の 小 学 校
私の入学した横根尋常小学校は木造二階建の小さな校舎で、二階は二教室に分かれて、間は板戸で仕切ってあり、式の時などはこれをはずして、机を片隅に積み上げて、全校八〇名位の生徒を入れた。一階は運動場と教員室と校長の住居に分かれていた。

校庭は狭く庭球コートもとれない。鎮守様の森と続いていた。鎮守の社(やしろ)は一段高く大きな杉の木に囲まれていた。石段を下りると、鳥居の前は広場になって、学校の庭と続いていた。この辺一帯が子供達の遊び場である。今はこの小学校も廃校になり、私の生まれた古い家も建て替えられて、お宮と大きな杉の木だけは今も残っている。

生徒はつんつるてんの着物に兵児帯をしめ、チビ下駄か、藁草履(わらぞうり)をはく。洋服はもちろん、袴は中以上の家の子が上級になってから、式の日にはくだけである。


横根尋常小学校と鎮守の森

先生は校長先生と若い準教員か代用教員が一人だけで、児童は三学年分を一教室に入れて教えた。したがって、習字や図画は手本を見て勝手にやっている。学校の費用は全部村の負担で、貧弱な山村の財政では満足に先生も雇えなかった。

こんな学校だから立派な先生が来てくれるわけがない。先生から特に教えてもらったとか、よい教訓を受けたという記憶は残念ながら残っていない。

毎日学校に通って教室には出るが、勉強よりは遊びの方に身が入る。遊びといっても、先生が指導してくれるわけではない。自分達で、こま回し、杭打ち、戦争ごっこ、夏は古屋敷の用水池や大川で水泳ぎ、冬は雪合戦などをやる。春近くなると、雪が湿って晴れた朝は堅く凍(し)みてどこまでも歩いて行ける。山の方まで歩いて行って、小さいそりや藁を束ねたものを尻の下に敷いて滑って遊ぶ。まだスキーなどはなかった。雪が消える頃には、蕗のとういたどりが出るので取って食べる。わらびやぜんまいも山に取りに行く。田ではどじょうがとれる。

私は五年生の頃から、学校じゅうの子供の大将のように振舞って遊んでいた。

高 等 小 学 校
尋常科を卒業して、高等科に進んだ。その頃は、女の子はもちろん、男の子も尋常科だけで終わることが多かった。

この年横根から高等科に入ったのは、私と近所の煙草や酒などの小売をしている家の渡辺久吉君と二人だけであった。

高等科のある入広瀬小学校は家から三キロ位坂道を下った、破間川の河岸段丘の上の穴沢部落の入口にあって、役場も近くにあった。校舎は木造二階建てで、四間半に一三間の本校舎に教員室、小使室と水屋、便所などが付いた小さな学校である。しかし、横根から行くと子供心に校舎も大きく運動場も広く、大変立派な学校だと思った。貧しい山村ではこの学校ができた時は、村長は涙を流して喜んだといわれている。

先生は校長先生の他に五人で、高等科の同級は一二人であった。高等科は校長の渡辺長吉先生が受持たれたが、高等科の二年生が少ないので、尋常三年をあわせて一教室で授業をやっていた。

校長先生は丸顔に頬髯(ほほひげ)の濃い、達磨さんのような顔つきの人であった。叱る時は全校が震え上がるほど恐い人だが、平素は闊達で温情のあふれる立派な教育者であった。師範学校出身で学問も経験も豊かであり、熱心に教えられた。子供心にも尊敬し、自分が心から先生と言える人に出会った最初の人であった。

先生は農園の実習も教えられ、率先して人糞尿を作物に施して、「これは国運発展の臭いだ」と教えられた。時には野外で車座になって、何でも聞きたいことを質問せよと言って教育されることもあった。

入学した頃は、本校からの生徒が大部分の中で、横根の教育は大分おくれていた。これは大変だと思ったが、しだいに馴れてきて、先生の授業が面白くなるにつれて、熱心に聞くようになった。しかし、相変わらず予習復習などはほとんどしなかった。毎日二人で三キロの坂道を往復するのだが、格別辛いと思うことはなかった。特に、夏は学校の前には破間川の清流が渕になっていて、ここで泳げる。夏は学校は半日の日が多いが、弁当を河原の石の上で食べ、夕方まで川に入って遊んで帰ることが多かった。

しかし、秋から冬の通学はなかなか骨が折れる。秋は雨が多く、道路は泥んこになって、草履や下駄では歩けない。その頃はまだゴム靴などはなく、精々ゴム底足袋か草鞋(わらじ)ばきで歩いていると、足が真赤になる。雪が積もると藁で作った深靴か、ずんべという短靴のように造ったものにはばきをつける。雪の多く降る日は、その上にさらに竹の輪かんじきをはかなければならない。吹雪の日には道がないときもある。しかし、雪国ではこれが普通であるので、よほど大吹雪にでもならなければ泊まるようなことはなかった。今ではこの山村の道路も舗装され、冬でもブルドーザで除雪し、乗用車やバスなどが通っているといういから隔世の感がある。

横根から通うので、遅刻は大目にみてもらうし、教室では熱心に授業を受けるので、学年末には一番で進級した。ところが、新学年の初めに、渡辺長吉先生が突然郷里の堀之内町の田川小学校長に転任されることになった。転任の日、校長先生は生徒一同の集まった屋内運動場の壇上で、ぽろぽろ涙を流しながら挨拶された。生徒もみんな洟水(はなみず)をすすり上げながら涙を流したのを覚えているが、どんな話をされたかは覚えていない。それから、一同ぞろぞろと先生を村境の池の峠まで送って、眼を真赤にして帰って来た。

代わって大平朝吉先生が着任された。先生は渡辺先生とはちがって、痩せ型の髪の毛のうすい、やぎひげを生やした温厚な人であった。大変博識で人柄も立派な人で、われわれは安心して勉強することができた。

二年になると、今度の一年生は大勢になって、横根校からも五人加わった。高等科だけで一教室で授業を受けたので、校長先生が受持たれ、授業も充実したものになった。

この頃は、貧しい山村では、高等小学校を卒業すれば家の仕事をするか、役場にでも勤めるだけで、上級の学校に行く者などはほとんどなかった。たまにあれば学費のかからない師範学校に行く者が時たまあるだけであった。私の親類の大白川の若主人も高等小学だけであり、姉の夫も高等小学だけで役場に勤めていた。

私も高等科を卒業すれば当然家で百姓をやるものと思っていた。父もそのつもりで、高等科に入った頃から身体は小さかったが、田仕事を教えるために、休みの日には田の代かきや田植、稲刈などに連れて行った。下男と同じように朝の草刈りにも行ったし、夏休みには朝の暗い中に起きて、自分で馬を引き出して鞍を置き、山へ草刈りに行った。身体が小さいので、馬の背に鞍をつけたり、草束をつけるのには苦労したが、それでも馬の草刈りに行くと、一人前の大人になったような気持で得意であった。冬には雪の朝、道踏みにも出たし、縄をなったり、草鞋や草履など藁仕事も、その頃には一通りできるようになった。

入 学 試 験
先生も父も特別、勉強について注意することもないし、もちろん受験勉強などは考えたことはなかった。ところが、高等科二年卒業も近くなった頃、父は校長先生から、その年に県で新たに給費生の制度ができるので、それに推薦してもらえば学費も何とかなるとすすめられ、私を上級学校に進学させることになった。そこで校長先生から県立加茂農林学校の入学試験を受けるように言われた。学校要覧を見たり、先生の指導で履歴書を書いたが、受験勉強などはほとんどしなかった。

その年は、加茂農林の入学試験は本校のほかに小千谷町の郡役所で受けることができた。小千谷町は家から約一〇里(四〇キロ)あって、当時、上越線は長岡から小千谷までしか開通していなかったので、雪道を一〇里歩いて行かなければならなかった。それで、途中小出町に一泊して行くことになった。父も先生もついて来ないので一人で行った。

私はこれまで修学旅行以外には宿屋に泊ったことはなかったので、少々心細かったが、雪道を一人で五里歩いて小出町の二葉屋に泊った。この宿屋は父や役場の人達が定宿にしていて、あらかじめ連絡してあったので、親切に泊めてくれた。

受験に行くのだが、教科書やノートは必要はないと言われ、筆記用具だけ持って行ったので、宿屋では一人ぽっちで、退屈で困った。翌朝宿屋を出て、雪道を約一里歩いて、堀之内町に入ったところで偶然に渡辺長吉先生に会った。入学試験に行くと言うと、喜んで家に連れて行ってくれた。先生の家は道路に面していたので、玄関先に腰をかけて休ませ、砂糖湯を出して、「これを飲めば必ず合格する」と言われた。それからまた、雪道を五里歩いて小千谷町に着いた。

小千谷では村出身の人が郡役所に勤めていたので、その家に泊めてもらって、試験を受けた。試験は算術・国語・作文であった。むずかしいとも思わなかったが、生まれてはじめて本式の試験というものを受けたので、結果は見当がつかなかった。翌日また二葉屋に泊り、六日目の夕方家に帰った。家に帰ってもなかなか通知が来ないので駄目かと思った頃、漸く合格の通知が来た。しかし給費の決定がおくれ、その内定を待っていたため、入学式に一週間位おくれて入学した。


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二 加茂農林とその教育

加 茂 農 林
人間の一生には全く予期しない転機がある。加茂農林学校へ入学し、その校門を入った時に、自分の人生は新しい世界に入った。

加茂農林の校門は明治の日本の学校を象徴する赤煉瓦を積み上げ、上に花崗岩の笠石を頂いた堂々たる門柱に鉄の扉がついていた。正門を入ると、両側に整然と刈込まれて形をつくったひばどうだんつつじが交互に並び、さらにその両側は規則正しく区画され、白い名札が立った木が植えられて植物園になっている。その間の一直線の広い道を進むと、枝ぶりのよい松の木があり、つつじの生垣で囲まれた馬車回しの奥の多行松の列の間を進むと、本館の玄関がある。この門を入って、今までの世界と全く違った新しい生活に入った。

日清戦争後の我が国が、富国強兵を国是として、新興日本を建設するために、国家の基礎を農業振興に置いた。この時代に、加茂農林は明治農法といわれる新しい農業技術をもって、農村の中堅青年を教育するため、当時日本一の農業県であった新潟県が、大きな抱負と期待をもって設立した学校である。

明治三十四年設立を決定し、三十六年五月十一日開校した。我が国の代表的な農林学校で、将来は高等農林学校をめざして、校舎や各種の施設を整備したといわれ、施設においても、教官の組織においても、当時の中等学校の水準を超えていた。

初代校長の赤星朝暉先生は東京帝国大学農科大学を卒業した新進の農学士で、新潟県農事試験場長、県技師の現職のまま学校長に任命された。赤星校長は熊本藩の重臣の家系の人で、横井小楠の学風を受け、農学とともに、漢学の素養も深い、学徳ともにすぐれた教育者であった。


加茂農林学校の校門

赤星校長は教育の方針として、教室の学問と農場の実習による勤労の実践、及び寄宿舎の生活訓練による品性の陶冶の三つを一体とした人間形成の教育を確立された。

その教育は単なる職業教育ではなく、農村の指導者を養成するための人格識見を確立するための教育であった。したがって、開校当時は全寮制で、寄宿舎訓練を重視した。

農林学校の教育と伝統については、私の一年上級で東京帝国大学農学部付属農業教員養成所を卒業して、農林学校の教員を長く務めた親友の原沢久夫氏が『加茂農林とその伝統』を著している。詳しいことはそれに譲り、私は主として私自身の人間形成の場として、その大要を述べることにしたい。

寄 宿 舎 生 活
私はこれまで田舎の農家に生まれ、自然の中で気ままに育ったが、加茂農林に入学してこれまでと全く違った生活環境で、厳格な寄宿舎生活の訓練を受けた。それだけに、その印象は強烈であり、私の一生における人間形成の基礎をここで訓練されたと思っている。

寄宿舎生活の基本訓練は赤星校長の下で、佐賀県出身の『葉隠』精神で鍛えられた堤三男教諭が舎監長として、「言うてきかせて、して見せて、やらしてみせる」という率先垂範による訓練であった。その規律と精神がその後も、吉野毅一、高橋介二、斉藤金一等の諸先生が受けつぎ、舎監として指導に当たられた。


寄宿舎の便所掃除

寄宿舎では清潔、整頓、礼儀が重んじられた。まず清潔・整頓としては部屋の掃除、押入れの整頓などもあるが、最も特色のあるのは一年生が毎日交替で行う便所掃除であった。コンクリートの小便所と陶器の大便器を、冬でも素手で煉瓦の破片を使って、ごしごしと徹底的に磨いてから水で流す。堤舎監長は自分で洗った上で、手でこすって嘗(な)めて見せて、手本を示してやらせたという言い伝えがあるほどで、私達一年生は徹底的にやらされた。

寄宿舎の一日は、朝の五時半の起床ラッパで一斉にはね起きる。床を上げると一年生は部屋の掃除と水汲みをやった後、洗面に行く。六時半のラッパで食堂に行く。食堂の礼儀は厳格で、正服かまたは和服は袴をつけなければ食堂に入れない。入口できちんと礼をして、自分の席に着くには、正面壇上の舎監と舎長の席のほうに礼をし、自分の席に向かって礼をした後、椅子に腰をかける。大体揃ったところで舎長が<起立 礼>と号令をかけると、一同立って礼をして食事をし、終わると、立って礼をして帰る。

飯は通常麦飯で、土曜日夕食と祝日には白米だけの飯である。献立表は上級生が当番でつくり、担当舎監が決定する。新入生の歓迎会、卒業生の送別会、刈上げの祝成会は食堂で先生、生徒一同が集まり、盛大な夜会が行われる。 八時に教室の授業が始まる。私どもの同級生はこの頃では志願者が一番多く、県内各地のほか長野県・福島県等から来ていた。定員は一〇〇名で二組に分かれ、教室は一年、二年は本館の二階で、物理と化学は一階の階段教室であった。

午後は農場の実習が週三回あり、農繁期には臨時実習もあった。農場実習は勤労教育の場として重視され、教師は指導はするが監視者ではなく、自主的勤労を重んじた。午後三時に終わるが、四時まで延長されることもある。五時半夕食、六時半門限で、七時から八時半まで自習時間、九時に消灯である。

済 美 組 合
加茂農林の生活指導と人格教育上誇るべきものに済美組合がある。済美組合は産業組合法に基づき、生徒が組合員となる。理事長は舎監だが、理事・監事は生徒である。専任の書記が一人事務に当たっているが、生徒の責任で運営されている。

食堂の廊下に定価を表示した学用品や日用品をケースに並べ、昼食の時間に担当理事がこれを開いて生徒は必要な品を伝票に記入し、購入伝票帳の一片を伝票箱に入れる。一人の看視者もいない公徳販売で、番人はいないから銘々が品物を持ち帰る。学費は担当舎監に送金され、生徒には現金を持たせないことにし、金額を記入した現金伝票帳が渡されてある。毎旬の終わりに旬計で購入金額を計算し、現金伝票の払出票に記載し、両方を揃えて定めの棚に置く。売店にない品や共同の購入物は、理事の許に注文票を出し、伝票で支払う。菓子や果物などは放課後に所定の食堂の入口で購入し、御用商人に伝票を渡す。洗濯代や散髪代も伝票で支払う。それで金額と品物の売却数量が正確に一致する。授業料や食費、舎費は毎月現金伝票で支払う。

このように、高尚な品性と信義を重んずる人物を養成する校風によって教育が行われた。試験の際も巡視の必要もないので、他校から来た先生は驚くほどであった。

寄宿舎の雑用は一年生の仕事で、掃除、水汲み、入口の草履の整理、冬の火鉢の火の世話など大変忙しい。自習時間に机の前に座っても、疲れが出てうとうとすることが多い。

寄宿舎の生活は軍隊の初年兵のようで、ビンタをはられたり、説教をくう者もある。外出の時は上級生に会うときちんと敬礼しなければならない。一番恐ろしいのは四年生会議で、時々娯楽室で、四年生の前に座って説法を拝聴し、素行の悪いのは前に呼び出され、気合を入れられる者もある。全くの緊張の連続である。

しかし一方では、月に一回土曜日の晩に室会がある。室会の許可は舎長が黒板に掲示する。一人前一五銭で菓子や果物を各室ごとに注文書を出し、食堂の入口で出入の商人から受取る。各室で一同食べ、歌を唄ったり、談話をしたり、和気あいあいである。時には上級生が私設コンパをやってくれる。消灯後、舎監の巡視が済むと、部屋の中央の布団を片付けて、一堂車座でローソクをつけて静かに食べる菓子や団子、時には上等な生菓子などもある。私は田舎者で、生菓子などは食べたことがなかった。世の中にこんなうまいものがあるのかと思ったこともある。

寄宿舎の生活は今までの田舎の生活とは全く別世界のようで、つらいこと悲しいこともあるが、楽しいこともある。全く夢のように過ぎたが、幸いに部屋の上級生がよい人達で、ビンタも、げんこつも、一度も頂かない。病気もせず、規則的な訓練を受けることができた。全くの田舎者で、勉強もおくれていたし、勉強の方法も知らなかったので、これは大変なことになったと思ったが、学年末には一四番で進級できた。

青 春 の 思 い 出
二年生になると、一年の時の北舎の玄関脇の部屋から、その上の二階の二〇号室に移った。室長は長野県人の小泉幸一さんであった。勉強家でなかなかの秀才であった。本箱の中には新しい思潮の文学書や思想の本が並んでいた。寄宿舎生活にも馴れ、新しい一年生が入ってきたので、雑用は少なくなるし、学科の勉強の要領も分かってきて、時間的にも気分的にも余裕が出てきた。教科書の勉強のほかに小説や人生問題の本を読み出したのもこの頃である。

第一次大戦に日本は連合国の一員として参戦したが、日清・日露の戦役のように国の運命をかけた切実さはなく、かえって戦争によって日本の経済は発展した。景気がよくなって成金も多く出た。戦後は国民精神も弛緩したが、一方ではロシア革命の影響もあって、新しい時代を迎える機運も起こった時代である。私どもがそれを十分意識しているわけではないが、時代の影響を次第に受け、年齢的にも段々と多感の時代を迎えてきた。

これは大正デモクラシーといわれた時代で、賀川豊彦の『死線を超えて』、島田清次郎の『地上』、倉田百三の『家出とその弟子』や『愛と認識の出発』などが若い人達に読まれた。私もこの頃から小泉さんの影響もあって、徳富蘆花の『思い出の記』や『自然と人生』などから始め、前に挙げたような本を読んでいった。私は特に、倉田百三の人道主義的なものに強く惹(ひ)かれて熱心に読んだ。また松岡譲の『法城を護る人々』が出たので、寺院仏教から人間性の解放に共鳴し、伝統と境遇などについても考えるようになった。

西田幾太郎著『善の研究』、紀平正美著『哲学概論』なども買って読んだ。もちろん、当時の自分が歯のたつものではないが、それでも分からぬながら線を引いて読んだ跡が残っていた。

大正十一年、私どもが二年生の時に、東京上野公園で平和記念東京博覧会が開かれた。加茂農林では、三年と四年は修学旅行に県外旅行があったが、この年は特に平和博見物で、二年生も一週間の東京旅行が許され、初めて東京に行った。平和博とともに、イルミネーションや電車・自動車、人の雑踏など、大都市の文化は若い心に強い印象を与え、大都市への憧れをあおられた。


加茂農林卒業の頃――左より著者、南波益夫君、高橋健次郎君

二年の時の学級主任は有本誠作先生であった。有本先生は第一回卒業生で、卒業後北海道大学で助手をやりながら勉強し、文部省の農業科教員の検定試験に合格して、母校の教員となられた人である。赤星校長の教育精神を最も純粋に体得実践された方で、化学と農産製造を担当され、私どもは化学を教えていただいた。私は後にも先生に格別のご厄介になるのだが、先生の教えを受けて、この頃から学問の大切なことを自覚して、勉強に身が入るようになり、一番で三年に進級した。

林 科 と 参 天 寮
三年生からは農科と林科に分かれる。私は林科に入ることにした。林科は二五人位で私は級長に選ばれた。学級主任は石附貫平先生であった。農林学校の卒業後、盛岡高等農林学校を卒業された少壮気鋭の俊才で、三角法と森林数学を教えられた。当時修身の堺茂通教諭などとともに学校のニュー・ライトの代表という立場にあった。舎監も兼ね、なかなか厳格な人で、一部の生徒には恐い先生であった。講義は論理的で明快、程度が高く、私は非常に興味をもった。

林科三年の教室は、旧娯楽室を改造したもので、製図室とともに他の教室と離れて、別棟になっていた。なかなか元気のよい連中が多く、活気があった。また、林科には演習林の実習があった。演習林は加茂町から約三里(一二キロ)、加茂川を遡って、その水源の粟が岳の麓にあった。約一五〇町歩で二団地五林班に分かれていた。演習林には寄宿舎参天寮があった。参天寮の名称は、唐の詩人杜甫の詩「古柏行」の中から採ったといわれ、寄宿舎の玄関には『黛色参天二千尺』と、雄渾な文字を欅(けやき)の厚板に彫刻して掲げていた。

春は雪起こし、夏は下刈と測量、秋は造林など、それぞれ一〇日から二週間位宿泊して実習する。この間は学科の授業はなく、自然を相手に師弟同行で汗を流し、自由で和気に充ちていた。参天寮の向いには、加茂川を隔てて削り立った断崖の上に熊野神社があった。この小山の頂上に立つと、越後平野が一望に眺められ、遥かに弥彦山が遠望される。弥彦山に沈む夕日を眺めながら、青春の希望と感傷にふけった。

土井晩翠作詞の校歌の一節に「造化の撫育を学びて帰る、夕の学窓燈(ともしび)の睦み、不言の教えは汲めどもつきじ」とあるように、美しい自然から学んだ不言の教えは人間成長上に大きな感化を与えたにちがいない。

三年生になると、山出しの田舎者の私も、寄宿舎生活にも馴れ、学科にも自信をもつようになった。入学当時は一メートル五〇センチ位のチビであったが、毎年一〇センチ位伸びて普通の背丈になり、多感な青春期に入った。大正デモクラシーといわれる時代思潮の影響も受け、前に述べたような書物も読むようになり、人生の理想とか学校生活の在り方などを考えるようになった。この年九月一日関東大震災があったが、ちょうど夏休みで家に帰省中であった。新潟県には被害もなく、学校にも直接の影響はなかった。

農林学校も創立時代の赤星校長や、堤舎監長によってつくられた校風は、二代目石塚鉄平校長の頃から幾分形式化し、三代目として来校された草場栄喜校長は赤星校長の下で教頭をやったこともあり、赤星校長の精神を新しい時代に実現するよう改革を進められた。川船農場を校舎に近く移転するとか、裏山を開いて果樹園を作られたりした。また、寄宿舎生活の改善など種々の新企画を行われたが、それが完成されない中に、新設の朝鮮の水原高等農林高等学校の教頭に転出され、桜田丑雄校長が着任された。これは私どもの学年が入学の少し前であった。

桜田校長は古武士的風格をもち、剣道の練習なども指導され、俳句などもやられた。しかし、当時の新しい風潮と調和されないこともあって、職員の間に対立が起こり、上級生の校長排斥の運動なども起こった。私どもの二年生の終り頃責任をとって辞職された。その後、私達が三年になっても、なかなか校長が決定されなかった。

こうして、校長が欠員のままでは校内の規律も弛み、寄宿舎の自治も形式化が目立つようになった。上級生が威張るという現象も出てきたが、これは自分達が上級生になって責任を感ずるとともに、年齢的にも理想主義的になって、前に述べたように新しい思想の影響も受け、現実を批判的に見るようになったためでもあった。そして、寄宿舎生活の改革とか、校風の発揚などを唱えるようになった。そのために、四年生の一部から生意気だと思われたりもした。

三年の十一月に漸く新校長・澤誠太郎先生が着任された。それに伴って、十二月末に、石附先生と堺先生が、前の桜田校長退任の件についての責任ということで、休職処分になった。これは大きなショックであった。

四年生になると、寄宿舎自治の責任もあり、学校のことについても先生方との関係も多くなって、なかなか忙しかった。

しかし一方では、将来の方針についても考えるようになった。父は将来のことについては格別指示することもなかったが、農林学校に入学させたのは、長男でもあり、家に帰って村の仕事をすることを望んだのだと思う。私も二年生の頃までは、家に帰って百姓と家を継ぐ気であったが、三年生の頃から、勉強をしたいと思うようになっていた。当時農林学校の卒業生が多く行く高等農林に進む気はなく、法律とか経済とか社会思想とかを勉強したいと思った。しかし、家の経済からとても学資を出してもらうことはできないし、農林学校在学中は育英資金を受けたが、その頃はそうしたことは何か負い目のように感じた。それで、上京して、働きながら、夜学で勉強したいと考えた。


卒業後50年の歳月を経た同級生の会――母校校舎の前に集まる(昭50.10.10)

農林学校の授業で一番弱いのは英語であった。ちょうどその頃、加茂町の大昌寺住職の西村大串(たいかん)先生が町の有志と研修会を組織し、教養講座として毎週英語を教えてくださったので、三年の時にこれに出席した。四年にも引続き、私ども農林学校の生徒の有志だけで、お寺で教えていただいた。

四年の時は、寄宿舎自治の責任者や応援団の仕事などいろいろ忙しいこともあったが、学校の学科は一日も欠席はせず、試験の前に勉強する程度だが、主席で卒業した。

私は正規の学校教育を受けたのは加茂農林までで、現在でも学歴を書く時は、加茂農林卒と書く。しかし、私の学問はこれからであって、当時はまだ入口にも達していなかったが、私の人間形成の基礎は加茂農林の寄宿舎生活の訓練と、その校風の中でつくっていただいたと思っている。


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三 青雲の志は空し

東 京 の 夜 学
青雲の志というか、明治以来の青年が勉強するなら東京へと志したように、何としても東京へ行って勉強したいと思った。加茂農林を卒業し、学校の推薦もあり、先輩で農林省の小作官をしていた小林平左衛門氏のお骨折りで、東京営林局に勤務することになった。大正十四年四月十九日付で「東京営林局雇を命ず 月俸三六円を給す」という辞令をもらった。

林科の卒業生は通常は営林署の勤務になるのだが、特に本局に配属され、会計課の収入係りであった。ちょうど農林学校農科の同じ学年の級長であった親友の高橋健次郎君が農林省農政局自作農課に就職して、本郷の駒込千駄木町の愛静舘という下宿に、一足先に下宿していたので、この部屋に同居することにした。

その頃の農林省は震災後の仮庁舎で、神田橋の少し下手の鎌倉河岸の対岸に、逓信省と並んでいた。神田堀のドブ河の橋を渡ると裏門があった。営林局も同じ庁舎にあった。木造ペンキ塗りの平屋建の天井の低いバラックで、天気の悪い日は日中でも電灯をつけなければならなかった。

役所に入ってみると、若い人達はほとんど夜学に通っており、中には大学の制服・制帽で勤めている人もあった。相当の年配の属官にも、大学に籍を置いて司法試験の勉強をしている人もいた。私は黒セルの詰襟を着て通った。仕事は会計で、算盤や帳簿の整理は下手でも、勉強するには都合がよかった。

この年は大学の入学試験は過ぎているし、まず最初の年は英語をやって、明年大学の夜間部に入学するつもりで、高橋と相談して、神田の正則英語学校の夜間部に入学した。正則英語学校は震災で焼けて、木造の仮校舎で、机などは細長い板を腰掛と一緒にした粗末なものであった。入学は授業料さえ納めれば、どの学級でも入れてくれた。入口は鉄道駅の改札口のようになっていて、授業料納入済の学生証さえ出せば、どの教室で授業を受けてもよかった。

学生は年齢男女に関係なく、中学生から、中年の紳士まで入っていた。熱心な人は早く行って前の方に座る。中には昼間の疲れで、後ろの方で横になって眠っている人もあるが、他人の邪魔にならなければよい。出欠を調べるでなし、教師は教えることに責任をもつだけである。質問には親切に答えてくれるし、定期試験には答案を出せばきちんと採点してくれるが、受けなくてもよい。きわめて合理的でさっぱりしたものであった。これまで、農林学校で生徒の本分とか、校風の発揚とか言っていたのとは全く別の世界であった。

朝は二人で本郷から役所まで歩くこともあり、電車で白山上から神田橋まで乗車することもあった。帰りは同じ学校で一緒に勉強して、電車で帰る。高橋は温厚で、思慮の深い秀才であった。同じ志を持っていたので、ほんとうに恵まれていた。

夏になると、下宿の狭い部屋では住みにくいので、中野のほうに高橋の親戚があって、そこに行った機会に、貸間を見つけた。植木屋さんの二階の八畳を借りて二人で住むことにし、朝食だけは下のおかみさんに作ってもらうことにした。その頃は中野は東京市外で北多摩郡中野町といった。ようやく住宅化が始まった頃で、本町通りには単線の古めかしい電車が、淀橋からがたがたと通っていた。省線の中野駅前には店屋が雑然と数軒並んでいた。私どもの住んだ谷戸は省線の駅から歩いて五、六分の距離で、新しい住宅がぼつぼつ建ち始めた新開地であった。家の前は草原の空地になっていたので、静かで、空気もよく快適であった。その頃は省線電車は中野始発が多く、ゆっくり新聞を見ながら通勤できた。神田橋で下車して役所まで歩き、夜は夜学を終わって、御茶の水駅から乗車して帰るので、通うのにも便利であった。月給が安いので、宿代を払い、夜学の授業料と電車賃を払うと、最小限の食事代位しかない。その点は窮屈だが、希望に燃えて、新しい天地に開放されたような気分であった。

夏休み前に役所で官報を見ていると、群馬県の普通文官試験施行の公告が出ていた。普通文官試験は判任官任用資格の試験である。各県で時々やるもので、合格すれば全国共通の資格がとれる。私は農林学校卒業なので、技術の方では判任官任用資格があり、特に受ける必要はないのであるが、どうして受ける気になったかはっきり思い出せない。事務の方では受けたほうがよいと思ったか、自分の力を試して見たいと思ったか、とにかく願書を出した。急いで古本屋から参考書などを買って、一応準備をし、八月下旬に前橋市に行き、県庁で試験を受けた。暑い時、汚い宿屋に、大勢の人と一緒に割り当てられて泊ったことを覚えている。

試験は国語、数学、地理歴史、法制経済であった。試験の結果は二番で合格し、合格証書が送られてきた。しかし、これは後で考えると大失敗であった。田舎から上京した年は、夏にはできるだけ休養して健康に注意しなければならないのだが、その時は身体のことなど全く気にかけなかった。

二学期になると、本格的に英語の勉強をやった。正則英語の重視する構文を文法的に学ぶことも理解が進み、英語の勉強が面白くなって、高橋と協力して、一番前の席を確保して授業に打ち込んだ。

役所の方は毎日時間内はきちんと勤めるが、これは月給をもらうためで、本当の目的は夜学の勉強である。当時は役所の若い人達は、ほとんどそうした気分で勉強しており、上の人も理解していて、実に自由で愉快であった。経済的には窮屈で、夜学を終えても大福餅一つ、うどん一杯食べる余裕もなく、空き腹で電車に揺られて帰り、水を飲んで床に入るというような生活だった。しかし、毎日が英語の勉強一筋に充実しており、他の心配も、気がねもなく、自分の一生で、この頃ほど自由で希望に満ちた時はなかった。

運 命 の 暗 転
年末には俸給も二円上がり、僅かだが賞与ももらった。田舎から送ってきた餅を食べて、高橋とともに新しい年を東京で迎えた。今年こそはと意気ごんだが、新年に役所に出勤する頃から風邪気味で、午後には頭が痛くなるし、電車に乗るためにホームの階段を上がる時は息切れがする。そこで、役所の近くの神田橋の東京市立の診療所に行って診察を受けた。

中年のでっぷりした、経験を積んだ医師が聴診器を胸に当てて呼吸を繰返させ、むずかしい顔をして、
「君、どうもよくないようだね」とぽつりと言った。
医者の顔を見て、はっとして思わず、
「どこが悪いんですか」と言うと、
「まだ、はっきりとは言えないが・・・・・、君の郷里はどちらだね。思い切って国へ帰って静養してはどうかね」と言われた。思わず、背中に冷たいものが流れた。

一応薬をもらって、宿に帰って、床を敷いて寝た。医者は肺病とははっきり言わないが、どうも心配になった。その頃は肺病は死病と考えられていた。「お前は肺結核だ」と診断されるのは、現在では「お前はガンだ」と診断されたと同じように、死刑の宣告をされたように思われた。しかし、その一方では俺が肺病になどなるはずはない、しばらく寝ていれば治るだろうとも思った。

この頃の日記には、「医師は結核の疑いのある診断をした。自分の身体が結核になるはずはないと思うが、神ならぬ身の保障はできない。万一結核と確定したら如何、我何も言うべき言葉なし、天なり命なり、如何とも致し方なし」と一応悟ったようなことを書いているが、それだけ動揺し、苦しみ、強がりを書いているのである。

しばらく寝ていたが、寝ていれば大したことはないけれども、不安があるので、高橋とも相談し、しっかりした先生から診察を受けることにした。高橋がその方面に明るい役所の人にも尋ね、駿河台下の国民医院の竹中繁次郎博士の診察を受けた。

国民医院は震災に焼け残った古ぼけた小さな医院であったが、竹中博士は堂々とした大家らしい風格のある先生であった。その頃はまだレントゲン診断などはなく、聴診器で呼吸音を聴いてから、ベッドに寝かせ、風呂敷のようなものをかけて、直接耳をつけて呼吸音を聴いてから背中を打診した。そして、注射針を背中に刺して、胸液を採って見て、「ああ、肋膜だよ、水が溜っている」と言って、注射針の薄黄色の液を示した。私はほっとして肋膜炎なら治るぞと思った。

その頃は肺病が結核菌による病気ということは分かっていたが、結核菌が肺に初感染病巣をつくり、それが肋膜炎を起こすということは分かっていなかった。肋膜炎と肺結核は別の病気と思われ、肋膜炎は治るが、肺病に進むとむずかしいと思われていた。

先生は太い注射針で静脈注射をしてくれた。睾丸の辺から身体が温かくなった。多分カルシユム注射か何かだろうが、静脈注射などこれまでやったことがないので、その時は大変よく利く薬のように思った。そして、肋膜炎なら早く肺病にならぬ中に治さねばならぬと思った。
「先生、入院して治した方がよいでしょうか」
「私の所は入院できないから、中野の近くの病院を紹介してやろう」と言って、東中野の田中病院に紹介状を書いて下さった。

田中病院は東中野駅から歩いて一〇分位、私の宿から三〇分位の小さな個人病院であった。

翌日、高橋に手伝ってもらって入院した。寒中の一月二十四日であった。

田中先生は五五、六歳位のゴマ塩の髪を、きれいに刈り込んだ、丸顔の温厚な人であった。早速診察して、看護婦が病室に案内し、白い布団を敷いて寝かせてくれた。病室は畳敷の六畳の部屋で、付添いの派出看護婦をつけてくれた。食事はこの付添いの看護婦見習の人がつくってくれた。

毎晩九時頃に先生が回診に来て、飲み薬のほかに三日に一回位、先生の研究した薬を注射してくれた。その頃は結核にほんとうに利く薬はなかった時代だが、先生は利くと思って注射してくれたのだろうし、こちらも利くものと思っていた。

入院した時は三七度八分位の熱があり、安静にしていれば大して苦痛もないが、毎日夕方になると三七度五、六分から八度位の軽熱が出た。

入院となればお金が必要で、独立独歩、親の厄介にならぬと言ってもいられないので、早速父に手紙を出したら、間もなく書留郵便で要望通りの金額を送ってくれた。大切に治療するようにと言って、別に小言もなかった。

後で母の話によると、田舎の一月おくれの正月を前に一応、勘定も済んだ時に、突然の大金の要求で、無理をして送ったということであった。

当時は一般の健康保険とか、公務員共済制度などはなかったが、林野職員には共済制度による入院費の一部補助があったので、安心して療養に専念することができた。

思えば、農林学校の寄宿舎生活から、全く生活環境の違う大都市に飛び込んで、役所の勤務、夜学、電車通勤という忙しい、しかもぎりぎりの貧乏生活で、前途に希望を追う気持だけ高ぶった不調和の生活をやってきたため、その頃都会に出た多くの青少年を苦しめた結核菌が、いつの間にか胸の中に病巣を作ったのであった。青雲の志をもって前途に希望を抱いていたのが、突然黒い絶壁に突き当ったようなものであった。しかし、当時はまさかこれから二〇年間も、この結核という重荷に苦しめられようとは思わなかった。しかし、大きなショックを受けた。

入院して安静にしていても、なかなか熱が下がらなかった。午後三時頃になると、三七度二、三分から四、五分の結核特有の軽熱が毎日きまって出る。自分は肋膜炎で、肺結核ではないと思いながら、悪くすると肺結核になるのではないかと不安になる。

その頃は、肺病も、肺炎カタルとか肺門リンパ腺とかいろいろ名前をつけたり、肺結核も一期、二期、三期というように分けたりしていて、いろいろの療法や薬も宣伝されていたが、ほんとうに利く薬も治療法もなく、結局、安静・大気療法で、自然に治癒を待つほかはない時代であった。

入院して二か月ほど安静にしていると、漸く微熱も出なくなり、葉桜になった四月の中旬に退院した。しばらく宿で静養した後、国許の方も雪が消えたので、役所を退職し、義兄に迎えに来てもらって郷里に帰った。この一年は、私の生涯にとって大きな意味をもつことになった。

故 郷 で 静 養
青雲の志を抱いて上京しても、病気になればやむを得ないので、家に帰って静養した。しばらく寝たり起きたりして、故郷の自然に包まれていると、しだいに健康も回復してきた。

病気のために前途が塞がれると、自分というものが内省されるとともに、自己と社会の関係が考えられるようになる。たまたま、病院に入院中に、新聞に新湖社の社会問題講座の発刊の広告が出ていたので注文した。これが毎月一冊ずつ送られてきた。社会問題講座はこれから続々と発行される、社会問題や思想関係の講座や、全集の皮切りとなったもので、若い頃の大宅壮一の編集によって、当時の進歩的傾向の学者、思想家を総動員した、割合に充実した内容のものであった。

当時は第一次大戦の終了と、大正十二年の関東大震災による打撃によって、我が国の経済もしだいに不況の色が濃くなっていた。労働争議や小作争議が各地に頻発し、大正デモクラシーからしだいに昭和初期の社会主義、共産主義の思潮へと向かっていた。こうした時代思潮は、社会問題講座を読むことによって、病気療養中の自分に影響を与え、社会問題について目を開かせた。


蔵王神社――家の前から望む

初夏の頃になると、微熱もほとんど出なくなったので、社会問題講座を勉強したり、少しずつ散歩をするようになった。散歩のコースは、家の向こうに、低い富士山型の小山がある。前は急傾斜であるが、裏から登れば緩い登り道になる。山の上は五葉松の大木の間に、蔵王神社のお堂がある。神殿の前からは、西南の方に信越の国境が見渡せる。この縁側や松の下で涼しい風に吹かれると気分が爽快になる。そして、南側の急な道を静かに下ると、麓に我が家の所有の椈(ぶな)の天然林が残っていた。椈の林は枯葉が積もってかさかさに乾いているので、その上に横になって寝ころんでいると、茂った葉を通して緑色の光線が軟らかにさしてくる。静かに目を閉じたり、開いたりしていると、自然と自分が一つになったような安らぎを覚える。この林はこれから後も自分が故郷に帰った時は、ここに来て静かに瞑想する場であり。魂の安息の場として、今でも思い出す。

夏になると、大分身体もしっかりしてきて、大白川に行った。まだ川に入ることはできないが、涼しいので静養にはよかった。八月の下旬には、出雲崎町の近くに住む、農林学校時代の親友の南波益夫君から遊びに来るように手紙があったので、南波の家に行って、しばらく厄介になった。南波は卒業後、家で農業経営に当たっていた。家は地方の旧家で、とても温かい家庭で、親切にしていただいた。近くの出雲崎は良寛の遺蹟があり、海もあるので、きわめて快適であった。これが縁になって、毎年遊びに行くようになった。

秋になるとすっかり丈夫になって、天気のよい日には稲刈りにも出てみるようになった。

この年の十二月二十五日に大正天皇が崩御されて、即日改元されて昭和となった。


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四 加茂で再出発

林 業 助 手
郷里に帰って約一年静養の結果、肋膜炎は一応良くなった。上京して勉強しようと思った夢は破れた。しかし、家で百姓をやるという体力もない。また、勉強を続けたいという気持は依然として強いので、いろいろ考えた末に、母校の加茂農林の助手をやりながら、勉強の道でもと思って、有本先生にお願いの手紙を出した。先生は校長や林科の先生方と相談して、新年度から林科の助手に採用できそうだと返事をくださった。三月に加茂に行き、沢校長はじめ関係の先生方に会ってお願いし、四月から助手に採用していただくことに決まった。雪道を小出まで二〇キロ、往復とも歩いた。病後の身体で雪道は汗びっしょりで、少々こたえたが、発熱もなくまず大丈夫と自身ができた。

昭和二年四月から加茂農林の助手として、加茂でやり直すことになった。その頃、助手は農科一人、林科一人で実習の事務や生徒の指導をやっていた。助手は裏門を入ったところにある農夫舎に住んでいた。これは川船農場の農夫舎を移したもので、八畳と四畳の畳敷の部屋と土間と台所があったが、農夫は全部通勤で、助手が住んでいた。始めは農科の竹内毅助手と二人であったが、間もなく竹内君が辞めて、泉田庄太郎君が助手になった。泉田君は家から通勤したので、一人になって、勉強には都合がよかった。

食事は食堂の事務室で、寄宿舎の食事を出してもらえるし、風呂も生徒と一緒で、経費がかからないので、月給が安くても十分やっていけた。


参天寮の実習――左より著者、
中村(飯村)教諭、遠藤庄平林夫

昼間は林科の製図室の一隅に机を置いて事務をとった。午前中は実習もほとんどなく、担任の先生と話し実習の作業計画や作業日誌を書く位で、暇なので勉強の時間は十分あった。午後は大抵実習があるので、生徒の点呼と、作業の割当てをして、苗圃に出て作業をやるのだが、作業には、長年林夫を勤めて、林科の主(ぬし)といわれた誠実、勤勉で生字引のような遠藤庄平林夫がいるので、少しも心配はなかった。作業といっても、苗圃の苗の育成や、測量実習などであった。雨の日は製図や林産製造の実験などもあったが、多くは屋外の軽作業で、適度な運動となり、健康のためには申し分のない生活である。夜は一人で、静かな農夫舎の自室で勉強できる生活環境であった。

この年の六月には徴兵検査を受けた。初めて新しい背広を着て郷里に帰り、検査を受けた。結果は予想通り第二乙で、兵役に召集される心配もないので、勉強に専念できた。

西洋史の文検をめざして
まず東京の正則英語学校で習った英語の勉強をやり直した。そして英語の勉強を主にして、それに経済や社会問題の本を読んだ。英語の読解力はある程度ついたが、田舎で英語を専門的に勉強することは無理である。それに、社会思想の勉強をしようとすると、歴史の知識、特に西洋史の知識の不足が痛感された。

この頃は、前に述べたように、大正デモクラシーから、昭和初期の社会主義的風潮の盛んになる時代で、『社会問題講座』に続いて、春秋社の『世界大思想全集』、岩波講座の『世界思潮』、日本評論社の『現代法学全集』及び『現代経済学全集』などが続々と出版された。これらを買って勉強した。

農林学校では歴史の教科はあっても、専門の先生もなく、西洋史はほとんど習ったことがなかった。歴史の知識がなくては、思想や法律の学問を勉強しても駄目だと思った。

この頃、中等教員の文部省検定試験、即ち文検は独学者に開かれたきわめて狭い門で、しかも程度の高い試験であった。中等学校卒業者や小学校の教員の多くが登竜門として受けた。合格者はきわめて少ないが、勉強の目標としてこれを受けようと考えた。歴史科は日本史・東洋史と西洋史の二科に分かれて受験科目になっていた。

受験案内書を参考に勉強の計画を立てた。大学の専門課程を中心に三万頁位の本を読まなければならないといわれたが、毎日三時間から五時間位勉強するとして、二〜三年で何とかやりたいと計画を立てて勉強を始めた。

十一月から英語中心の勉強を西洋史の勉強に切り替えた。もちろん思想や経済の本は適当に読める。

西洋史の勉強は、私の自学自習を組織的にやった初めてのものであるので、少し詳しく述べることにする。始めはまず中学校の西洋史教科書を徹底的に勉強し、覚えることが必要だと思い、試験委員でもあり、当時中学校で一番多く用いられていた川村堅固博士の中学西洋史教科書を繰り返し読んだ。教科書は無味乾燥のようだが、これは学科の骨格のようなものである。これがしっかり頭に入っていないといけないと思い、しっかり覚えた。特に、教科書にある史実を年表と歴史地図とを一つにしてしっかり頭に入っていないといけない。そこで、主要史実の年表を大洋紙に書いて、部屋の壁に張り巡らし、疲れると炬燵(こたつ)に横になって年代を覚えるとともに、それに伴う史実を、ほとんど暗記できるまでに覚えた。これによって、西洋史の骨格のようなものが頭に入った。

この教科書とそれに付いた教師用の参考書を頭に入れてから、亀井高孝教授の『参考西洋史』、次いで箕作元八博士の『西洋史講話』に移った。箕作博士の『西洋史講話』は千頁余りの大冊だが、なかなか名文である。通史といっても史論や史話も上手に盛り込んでいるので、何回も読み、これを中心書にして、その頃出ている西洋史の通史的のものは、ほとんど全部比較しながら読んでいった。

一年で農夫舎を出て、町の素人下宿に移り、気分を転換して勉強した。経済的には少し苦しいが、落着いて勉強するには都合がよかった。

この年の秋にためしに試験を受けたが、一年で西洋史に合格することは無理であった。しかし、この頃になると、文検の道を進んでいる人達とも連絡ができた。特に、当時新潟商業学校の歴史の教諭新井寛勵氏と親しくなり、いろいろな指導を受けたり、参考書なども貸していただいた。

そして、通史的のものは一応読んだので、専門的の分野の村川堅固博士の『西洋古代史』、坂口昂博士の『概観世界思潮』、『ルネッサンス史概説』、大類伸博士の『西洋中世の文化』、『世界史におけるギリシャ文明の潮流』など文化史方面のものも読み、また、英文のマイヤーのゼネラル・ヒストリー(General History)を英語の勉強を兼ねて読んだ。これはアメリカの大学の教科書風の、七〇〇頁もある大冊で、読むには少々時間がかかる。辞書を引きながらじっくり読むために、一時間に読む頁数は少ないが、考えながら読むのでよく理解でき、西洋人の歴史についての考え方も分ったように思った。

この頃、時々盲腸の痛みで苦しんだので、春に長岡の神谷病院で盲腸炎の手術をした。夏休みは郷里のお寺の一室を借りて勉強した。秋に試験を受け、新潟の第一次試験も東京の本試験も合格し、昭和五年の一月十一日付で、文部省から「師範学校、中学校、高等女学校、歴史科ノ内西洋史ノ教員ヲ免許ス」という教員免許状が送られてきた。

この文検の西洋史の受験勉強をしていた頃は、自分が一番真剣に勉強した時代であり、学問の体系的知識というようなものができた。

受験勉強というものは、無味乾燥で、苦しい面もある。しかし、大学で教授について系統的に勉強できる恵まれた人は別として、独学で勉強しようというものには、一応体系的な知識をつくるためには、自分には、興味が少なく、覚えにくいところもがまんして、手を抜かず組織的に勉強しなければならない。そのためには、受験勉強によって一通りの知識の体系をつくることが必要であり、この基礎があってはじめて、学問というものが組織的に身につくのであると思う。自分のように独学で、学問という真理の殿堂に入るための勉強をするには、これが基礎となったと思った。

文検に合格したので、どこかの中等学校の教員に就職し、落着いて、さらに勉強したいと思った。二、三年前までは、歴史の教員が不足し、文検合格者はほとんど中等学校に就職できたが、この頃、急に不景気が襲来し、浜口内閣の緊縮政策で、昭和四年十月には官吏の減俸が行われた。中等学校の志願者も減少し、学級減が行われるという状態であった。昭和五年には大学、高等専門学校の卒業生も就職が困難になって、「大学は出たけれども」という言葉が流行した位で、中等教員に採用してもらうことはできなかった。農林学校も実習教師にはしてくれたが、正規の教員にはなれなかった。

仕方ないので実習教師として農林学校に残り、勉強してさらに日本史・東洋史の文検を受けることにした。日本史と東洋史は一科目になっているので、並行して勉強した。今度は勉強の要領も分っているので、順調に進んだ。


加茂で再出発の頃――父(左)と
布沢与五郎氏[むらの元老](右)

この頃、農林学校時代の親友の南波益夫君の妹スミ子が長岡女子師範学校を卒業して、家から出雲崎小学校に通っていた。二人の間の結婚がきまり、三月の休みに結婚式を挙げた。就職口が定まらないので、スミ子はそのまま実家から学校に通っていた。一年後に、加茂町に近い羽生田小学校に転任して来て、二人で加茂に家を持った。しかし、受験勉強中で、新婚を楽しむという余裕もないまま、スミ子は夏頃に身体の変調を訴えるので、通勤に便利なように羽生田に移って近所の病院に入院したが、急に悪くなって八月二十四日に死去した。

死ぬなどとは全然思ってもいなかったが、突然の死に、強い衝撃と自責の念にかられた。死というものがいかに深刻なものか、人生の無常をつくづくと思い知らされた。

羽生田で火葬を行い、遺骨を抱いて郷里の家に帰り、葬儀を行った。しばらくは虚脱したようになって、何も手につかなかった。そして、郷里の近くの栃尾又温泉で静養することにした。平素あまり心配顔をしたことのない母も気になったか、湯治ということで、ついて来て、一緒に温泉宿に泊った。

しばらく静養して、気分の整理を行い、農林学校に帰り、加茂町の佐々木という牛乳屋の二階に下宿させてもらった。

予定通り、この年(昭和六年)の秋の日本史・東洋史の検定試験を受け、新潟で行った第一次試験も、東京の本試験も合格し、十二月二十九日付で中等教員の日本史・東洋史の免許状が送られてきた。そして、翌年には高田中学校の教諭に就任することができた。


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五 有本誠作先生と赤星校長

加茂農林と有本先生
再度加茂農林にご厄介になって、助手、実習教師として勤めた五年間は、私は歴史の勉強をやり、中等教員の検定試験を受け、私の学問の基礎を造ることができた。しかし、その一方では病後の身体で、しかも常に結核についての脅威と不安を感じながらの貧乏生活であった。そして、年齢的にも不安定のころで、自分の人生における危機ともいうべき時代でもあった。当時、勉強好きの子を持つ親の心配は、子供が結核とアカに感染することだといわれた。自分なども、父も母もその時は何も言わなかったが、後年に母が、「どうも勉強するほど悪くなるようだ」と父が言っていたことを話した。昭和三年の三・一五事件、四年の四・一六事件などが起こった頃で、マルクス主義の思想が知識階級の間で盛んであり、一方では、それに対する弾圧も厳しかった。私もそうした時代思想の影響を受け、前にも述べたように、そうした方面の著書や雑誌も相当に読んでいた。そして若い正義感から、社会に対しても教育に対しても批判的な言葉が多かった。

こうした中で、とにもかくにも大した間違いも起こさず、安全に勉強を続けることができたのは、その頃母校の同窓の中村昇氏や原沢久夫氏をはじめ、多くの先輩や友人の友情のお陰である。特に、私が心から尊敬し、終生恩師として仰いでいる有本誠作先生と西村大串先生のお陰であるので、この二人の先生について述べなければならない。

有本先生の教育愛
有本先生については、平沢久夫氏が、『加茂農林とその伝統』の中でその経歴と教育について詳細に書いてあるので、詳しいことはそれに譲って、私との関係を主にして簡単に述べることにする。

先生は前にも書いたように、加茂農林の第一回卒業生で、創立当時の赤星校長の教育精神を受け継ぎ、身をもって実践された人である。

先生は農林学校卒業後、東北帝国大学農学部(後に北海道大学農学部)の雇として、農芸化学科に勤務された。この頃の勉強はすさまじいもので、一日の助手としての仕事の後、許可を受けて教授の講義テキストを写して勉強し、大学と下宿の往復の時間を惜しんで、暖房のない研究室で徹夜されることが多かったといわれる。この厳しい勉強のため健康を害され、二年ほどで帰郷のやむなきに至ったが、この間に学問の基礎と化学の研究の方法を会得された。郷里に帰り、母校の助手をやりながら、中等教員農業科の検定試験に合格され、教諭となって、化学と農産製造を担当された。


有本誠作先生

先生は胸に病気を持ち、頑健とはいわれない痩せた身体で、そのどこに馬力があるかと思うほどだが、学問の研究と生徒の教育、卒業の世話に心魂を傾け、一生努力を続けられた。

私は、一年生と二年生の時化学を教えていただき、二年の時は学級主任をやっていただいた。私どもの二年の二学期末に病気をされ、この時は半年ほどで全快された。私どもが卒業した後に病気が再発して、一年余り、ちょうど私が病気療養のころに療養生活をやられた。そして、私が加茂に再度ご厄介になるについては、いろいろと世話をして下さった。先生は二年ほど、佐渡農学校の教諭をやられて昭和四年四月から母校の教諭に復帰された。その後もけっして頑健とはいわれないが、精神力と慎重な健康管理によって、研究と教育に努力を続けられた。

私は困ったことがあると、いつも先生の許に行く。先生は大抵農産製造室で、白い上張りを着て、農産製造の作業の指導や実験をやっていられるか、卒業生に手紙を書いていられる。そして、どんな忙しい時でも嫌な顔をされることがない。私は先生と思っても、先生は後輩としての友人か、弟のようにして親身に相談に乗って下さった。

私に対してだけではなく、総ての生徒や卒業生に対し、親身に教育しお世話をされた。出来のよい生徒、出来の悪い生徒を区別しないというよりは、むしろ出来の悪い人、不幸な境遇に陥った人を親切に世話をされた。何度もしくじって迷惑をかけた人でも、何度も職を世話された。生徒を叱る時も怒った声を出されるようなことはなく、自分の足らないことを悲しむように、涙を流さんばかりに話されるので、どんな腕白でも身にこたえた。『葉隠』に「理外の理あり、君子これに住す、理外の理とは、慈悲のことなり」という言葉があるが、先生は実に理非の外に立つ慈悲の人であった。

この頃は沢校長の晩年で、時代の影響もあって、校風も弛緩していた。時には生徒や卒業生の中には校長の退任を求め、校風の刷新を行うという動きもあったが、そうした時には敢然たる態度で、赤星校長の定められた校訓の精神を説いて、そうした動きを抑えるとともに、沢校長を助けられた。

沢校長が円満に定年退職されると、先生は母校の再建のために、卒業生代表とともに、当時千葉高等園芸学校の勅任校長の栄職にあった赤星先生にお願いして、再度来任を乞われた。

赤 星 校 長
赤星先生も有本先生達の母校愛に対して、自分の創立した加茂農林の再建のために、寒い雪の降る越後の地に骨を埋める覚悟で、加茂農林の校長に就任された。

私は赤星校長が就任されてから、半年ほどで高田中学の教員になった。したがって、赤星先生の薫陶を直接受けた期間は短かったが、先生が校長室におられるだけで、学校の空気は一変し、校内は粛然と、しかも明朗になった。学校というものが校長の人格、見識がいかに大きな影響をもつかということを身をもって体験し、教育は中心にある人の力によることを知った。

私が高田中学校に赴任する時、赤星先生は私に対し、
道雖邇不行不至  事雖小不為不成
(道は邇(ちか)しといえども 行かざれは至らず 事は小なりといえども 為さざれは成らず)
という半折と
 問君何事栖碧山  笑而不答心自閑  桃花流水杳然去  知有天地人間
という李白の詩の色紙とを揮毫(きごう)して下さった。(李白の『山中問答』には"問余"とある。)

赤星校長は就任されてから僅か二年で、昭和九年六月、学校内外を挙げて哀惜する中に逝去された。


赤星校長

有本先生は昭和十五年定年退職後は新潟県立農村工業指導所長として、戦中戦後の食生活の改善と、卒業生のお世話に献身的に努力された。昭和二十二年に天皇の新潟県下御視察の際に、知事公舎で「食生活の改善について」の研究を御進講された。

昭和二十七年三月二十九日、六三歳で逝去された。先生の同窓会葬は四月十二日農林学校の講堂で行われた。卒業生、在校生及び各方面多数の方が参列し、私も出席した。この葬儀には、新潟県知事の岡田庄平氏も自身出席して弔辞を述べられたが、弔辞を述べている中に老練、剛腹で有名な岡田知事が悲痛な情に堪えないで、ぼろぼろと涙を流し、「私はもっと先生に生きていて、教え導いてもらいたかったのでございます」と叫ぶように言って絶句し、そのまま頭を深々と下げて降壇された。おそらく知事の弔辞としては例のない、しかし最高の弔辞であったと思う。満場寂(せき)として涙ぐんだ。

葬儀の後で、一同食堂に集まり思い出を語り合った。同窓の熱血漢の高野幾多郎氏が涙を流しながら「先生は悪意というものが顕微鏡で見ても見出せない人であった。自分に悪意がないので、人の悪意を少しも感ずることができない人であった」と述べた。誠に至言である。


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六 西村大串先生と朝学校

西 村 大 串 先 生
西村大串先生は私が農林学校の生徒の時、三年と四年の二年間毎週夜学で、英語を教えていただいた方であることは前にも述べたが、二回目の加茂農林時代には、先生が教育に当られた大昌寺朝学校の授業をお手伝いするようになり、その人格、思想によって親しく教えを受けた。

西村先生は明治十六年二月五日加茂町の農家に生まれ、二十九年に得度された後に加茂町大昌寺住職西村堂明師の養子となられた。

東京の私立京北中学校を卒業した後、第四高等学校文科を経て、四十一年に東京帝国大学英文科を卒業された。

卒業後、曹洞宗大学、京北中学校及び成蹊実務学校(成蹊大学の前身)などの講師を兼ねられ、同時に栴檀(せんだん)寮という曹洞宗の学生寮の寮長として訓育に当たられた。この寮での教育の経験によって、後に大昌寺朝学校を設立された。

先生は私に、先生が道元禅師の『正法眼蔵』の研究に打ち込まれた理由を次のように話されたことがある。

「その頃、曹洞宗大学の講師をやりながら、秋野孝道師の正法眼蔵の講義を聴講した。秋野孝道師は曹洞宗大学学監・総監などを歴任した後、曹洞宗大学学長となり、曹洞宗における正法眼蔵の権威として知られている。


大昌寺山門

講義の後で "西村君、眼蔵の講義が分かったかね" と言われたが、自分には講義を聴いても、納得できないので、"どうもむずかしくて分かりません" と言うと、"駒沢の学生は仏教が専門だから大抵の者は分かっているが、君は英文科の出身だから分かりにくいのであろう" と言われた。

しかし、自分は宗門第一の書といわれる難解の『正法眼蔵』が駒沢の生徒位に分かるというのは納得できなかった。それで、東大の二年先輩で、友人の木村泰賢にその話をした。すると木村泰賢は、"駒沢の学生位で正法眼蔵が分かってたまるか。大体秋野さん自身がどこまで、眼蔵が読めているかい" と言った。

この木村泰賢は後に東京帝国大学の教授になり、天才と言われた人である。印度哲学についての著書も多いが、昭和五年に五〇歳で早逝した。」

西村先生は「木村の言葉で、正法眼蔵は自分の修業によって体得しなければならないと信じ、自分は一生をかけて宗祖の正法眼蔵を学ぶ決心をした」と述懐された。

大正九年に大昌寺の先住が遷化されたので、寺を嗣ぐために加茂の大昌寺に帰って住職になられた。

西村先生は大昌寺住職として寺務を勤められ、一方では社会教育の仕事もやられたが、自分の修業と青年教育のために、大昌寺朝学校という、全国に類のない学校を始められた。

加茂朝学校の教育
この朝学校については、後に、昭和二十二年十月、今上天皇が新潟県に行幸された時に、御前においてお話申し上げた時の記録がある。これは先生の考え方と朝学校を最もよく説明されているので、少し長いが、これを転載することにする。

「私は今より二八年前大正九年に、地方青年教育のため、本県加茂市の自坊に朝学校という特殊な学校を始めたのでありますが、今では四年制度の朝中学校となって中学卒業者と同等の資格を認められ、生徒二五三名、教員一九名となっております。

私は此の学校を始めるにあたりまして、三つの念願をもったのであります。

第一はこの仕事を通じて私の修業をつづけよう、第二は寺院を覚醒せしめよう、第三は真の学問とは如何なるものかを青年に教えようというのでありました。

第一について申しますと、私は明治四十四年に東京帝大の英文科を卒業して、間もなく大昌寺の住職になったのであります。それから宗祖の書き残された正法眼蔵の研究にかかったのであります。正法眼蔵は、非常にむづかしい文でありまして、元の文部大臣橋田博士が三〇年研究して、漸くわかった部分として、釈意三巻を発表されたほどです。徳富蘇峰氏は世界第一難解の書だろうと嘆息して居りますが、行文がむづかしいのではない。もられている意味が難解なのであります。体験を積まないとわからないのであります。まして私などは之を体験するのに五年や一〇年ではわかるまい、三〇年も四〇年もかかるだろうが、其間に挫(くじ)けてはならない。それをひきしめるために、又特に眼蔵の現代的体解のためにも、青年の中に入っている必要があったのであります。


晩年の西村大串先生――ご子息一慶氏に手をとられて

然し、私は寺院住職でありますから、昼間に相手しては居れませぬ。私も青年も業務のさまたげにならない時間としますと、夜か朝かということになりますが、夜は玉石混淆(こんこう)、ひやかし半分の者に邪魔されるおそれがありますので、早朝青年を集めることにいたしました。勿論眼蔵の話許りするのではありませぬ。青年は英語、数学、国漢文、法制経済などを習いに来るのですから、毎朝食前二時間はやらなければなりませぬ。それで四時集合、四時半授業開始ということにいたしました。冬の四時半はまだ夜中でありますから、其時までに床を蹴って来る青年だとしっかりしたものです。そういう青年を相手にする私の方でも真剣でなければなりませぬ。さもないと、私は青年に捨てられて仕舞います。真剣に研究を続けるために、青年にとっても私にとってもどうしても塾形式でなく、学校の形態をとらなければならなくなりました。

それから、第二の、寺院を覚醒せしめる方法についてでありますが、現在寺院の数が全国に七万か寺、僧侶の数が十五万人あります。今仮りに平均一か寺一万円予算が立ち得るとしますと、一年に七億円になります。然も全国民の九割迄が何寺かの檀家でありますから、これが活躍すると否とは国家の重大問題であります。何れの寺も宗教的には何分かの活動はしていますが、これもまだ半分しか利用されておらず、もう半分の社会教化の実際面はまだ御留守というてよいと思うのであります。そこでおこがましくはありますが、率先垂範の意味で自ら四時に暁鐘をならし、朝学校と共に寺院の覚醒をせしめようとしたのであります。

ところが誰に相談しても、企ては結構だが一か月とは続きますまいという見解であります。けれども私には自信がある。東京にいる中に二年教鞭を執った学校で、わきからは随分無理だと思われるやり方も、生徒と先生との間に信頼がありますと、生徒の身体にも学業にも差支えない許りでなく、却って飛び離れた成績を上げることができるという実例を知って居ります。

大正九年九月十日午前四時に暁鐘第一声を撞きました。集まった生徒が十一名、月の終りには二十四名、その十月には七十名となりました。中には人真似して来る生徒も大部見えますので、雪が降るとあやしいと思って居りますと、(中言ですが、私の町は越後としては多い方ではありませぬが、三尺や四尺は積ります。其れをこざいて通うのは実に容易でないのであります。)果してチープーチープーと荒れる様になりますと、一人へり、二人へり段々少なくなります。減って減って誰も来なくなると学校がつぶれることになりますから、私は気が気ではありませぬ。雪の積る朝などは門前迄雪を除き、道をあけて待って居ります。其のうちに雪を踏みこざいて来る青年の影を見ますと、うれしくてたまらないのです。吹雪で電灯の消えた朝など、それでもやって来る生徒を見ますと嬉しくて、庫裡の大きな炉にどんどん火を焚いて、取って置いた法事菓子を出してたべさせますと、腹が減っているものですから実にうまかったそうです。

こんな風にして其の歳の冬は過ぎました。通い通した生徒は十三名ありました。先生は私の外に二名ありました。毎朝ではありませぬが、先生も朝四時に来て頂くのですから感激いたします。生徒は町及び隣村の高等科卒業の優秀な青年でありますから、何れも向学心に燃えて居ります。中には無理しても東京へ飛び出さうとしている青年もありましたが、私は彼らに諄々と「立身出世は学問の目的ではない。真の人間になるのが学問の目的だ。家業に従事しながらも修学する諸君こそ真の学生だ。修学は二年や三年ではない。一生涯の問題である。」と説きます。外は荒れているが、それだけ内方はシュンと落ちつきます。彼等はしっかり私のいうことを受取った様です。私がこの事業を始めました第三の念願はここにあったのであります。

かくして翌年四月には新入学生あり、学級も増し、其翌年も其翌々年も順調に過ぎましたが、大正十二年第一回卒業生を出しました。其頃遠方の生徒で学校に前夜から宿泊さしてほしいという者がありまして、泊めて夜学で予習復習させますと大変成績が上るものですから、大正十五年四月から全校生徒百名を宿泊させることにして、今の晩朝学校教育に致しました。そうしましたら出席率もよくなり、途中退学者も減じて学校らしくなりました。生徒が増し寺だけでは間に合いませんので、昭和四年に校舎を造り、昭和十二年に中学校として文部省の認可を得まして今日に至りました。

学校の経費の点を申します。創立当時は町に市川辰雄さんという篤志家がありまして、経費全部負担してくれました。間もなく御都合がわるくなりましたので、一般の御方々に願うて維持会を造って頂き、校舎を造りました。更に町の有力者、町の各学校の教諭の方々に御援助を頂いている様なわけであります。

最後に感じました事は越後青年の忍耐強い事です。今では中学校と同等以上という特典がありますが、其以前十八年間は全く特典なく、夏でも冬でも四時に起きて通学するのは容易の事ではありませぬ。しかし無欠席という卒業生が毎年二〜三人は必ずあります。

以上簡単に朝中学校について申上げましたが、来年度からは新生の高等学校になる予定で準備して居ります。

最後に私の研究が遅々として進みませんのは慙愧の至りですが、最近訓練章としてまとめ、朝夕生徒に朗唱させておる次第であります。」(原文のまま)

以上は朝学校創立の由来と教育について西村先生が述べられたことを記した。私が加茂農林の生徒であったのは、朝学校を創立されて間もない頃であった。朝学校を教えられる一方で寺役を勤められ、その上で私どもに夜学で英語を教えていただいたのであった。私はさらに加茂農林の助手を勤めるようになって、昭和三年四月から朝学校の授業のお手伝いをした。学科は歴史ではなく法制経済を担当し、一週一回教えることになった。もちろん十分の学力はないが、自分の勉強と思って教壇に立った。こうして、西村先生に接する機会も多くなり、その人格に触れ、その学風の中にいると、自然に真の学問、真の教育というものが、どういうことかを教えられた。

私は昭和七年四月高田中学校の教諭に就任することになった。先生は心から喜んで下さって、大勢の生徒を連れて加茂駅で送って下さった。私はその後も毎年大昌寺に参上し、時には数日泊めていただき、哲学の話や人生の問題について先生の教えを受けた。

先生は朝学校を教える一方で、大昌寺禅林を創立し、寺院の師弟に僧侶としての教育をされた。大勢の小僧達が寺に起居して、朝学校に学ぶとともに、僧侶としての修業をさせておられた。貧乏寺の二男、三男という若い小僧達が大勢いて、いたずらも多く、お寺の負担も大きいので、檀家や近所からの苦情も多かった。しかし、先生は「困った小僧達だから自分が教育するのだ」と、自分の子供と同じように叱ったり、教え育てられた。

正法眼蔵と体達録
先生はこうした忙しい毎日ではあるが、寸暇を見て、正法眼蔵の研究、思索を続けられ、その思索と体験の成果を『体達録』として大学ノートに記録された。それは六〇冊にも達した。

先生は「日本の祖師や高僧達は、修業して到達した悟道の境地において語録や法語を残しているが、そこに至った方法論や道程についての記録を残していない。これでは、二階に上がって梯子をはずしておいて、ここまでおいでというようなものである。これでは、後から来る者には進む道が分からない。私は第一歩から自分の歩いた道程を書き残しておきたいと思って書いている」と話された。


西村大串先生の筆蹟
――『冥想録』より

『体達録』は大正十一年三月から昭和八年二月までの分が浄書整理されて昭和三十三年に『冥想録』として出版された。その後『信行録』として整理出版される予定であったが、先生のご病気についでご逝去のため、原稿の浄書整理がむずかしく、未だに出版できない。その点残念であり、申訳ないことだと思っている。

『冥想録』を読むと、一日一日がどんなに真剣であり、修業が厳しいものであるかが分かる。修業といっても宗教でも武道でも、あるいは芸事でも、免許とか印可とかを目標として、一定の期間型にはまった修業であれば、たとえ厳しいものでも志のあるものはやりとげることができる。また、正法眼蔵を学問的に研究し、それを講義することはそうむずかしいことではないであろう。しかし、先生のような忙しい寺役や教育、社会奉仕活動をやりながら、しかも立派な社会的地位をもっていられて、正法眼蔵を相手に真実の宗祖の精神を身をもって探求し続けられ、その一日一日の修業の跡を記録されるということは実に困難なことであり、それだけに『体達録』は貴重なものである。

先生は戦後の窮乏の世の中で、朝学校の教育と経営に苦労され、さらに老年の身で、弟子達と寒中でも托鉢を続けるというような身心の過労が重なって健康を害され、脳軟化症の症状で病臥されるようになった。一時は快方に向かわれたこともあるが、遂に全快されることなく、昭和三十五年十月七日逝去された。

私は少年の頃から中年に至るまで、先生を師とも親とも思って教導していただいた。どんなに困った時でも悩んだ時にも、先生には何でもお話申し上げ、教え導いていただき、人間の生き方の根本を教えていただいた。そして、私のような者が今日に至ることができたのは先生のお陰であり、年を重ねるに従って、先生の偉さをますます深く感ずるのである。それだけに、先生がせめてもう一〇年ご健康で、『体達録』を完成させ出版していただきたかったと痛恨の思いが深い。

このように、私は加茂には農林学校の生徒として四年間生活訓練の教育を受け、さらに農林学校の助手、実習教師として五年間、歴史の勉強とともに、有本先生、西村先生によって、教育者とその人間の真実の在り方を教えていただいたのである。


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七 高田中学校と非常時の教育

高田中学の教諭
昭和六年十二月に中等教員の日本史・東洋史の検定試験に合格し、前の西洋史と合わせて歴史全科の教員免許状をもらった。しかし、この頃は前に述べたように、昭和初期の不景気のどん底で、公務員の減俸が行われたり、中学校の入学志願者が減少し、学級減が行われ、新しく教員に採用されるのは困難な時代であった。今年も就職は駄目かと思ったが、年度末の校長の異動で、県立新発田中学校長の小川景重氏が高田中学校長に転任され、ちょうど高田中学校には歴史の教員が一人欠員になっていた。文検の先輩で新発田中学の歴史の教員をしていた新井寛勵氏の紹介で、小川校長に会った結果、高田中学校の歴史の教員に採用されることになった。

昭和七年四月十四日付で、高田中学校教諭心得、月俸七〇円の辞令を受けた。半年後には教諭になったが、月給は同じであった。三、四年前までは同じ資格で就任した人達は初任給九〇円位で任命されたが、不景気の時代なので已むを得なかった。しかし、師範学校卒業の小学校教員の初任給は五〇円位の時代であったので、中学校の教員になれたのはまず幸いであった。

高田市は上越地方の中心都市で、戦国時代の英雄上杉謙信の居城であった春日山城は高田の北方約四キロで、直江津町との中間にある。徳川家康が高田に城を築いて、その子忠輝を封じ、城下町をつくった。以来北陸から江戸に出る要衝で、親藩が封じられた。中期以後は譜代の榊原氏が代々城主で、明治維新まで続いた。

明治になって、初め五八聯隊が置かれ、明治四十一年に第一三師団が設置された。大正十四年の軍縮で、一三師団は廃止され、第二師団の管下となり、歩兵第三〇聯隊と独立山砲大隊があった。雪の高田といわれる位に雪の深いところで、産業は発達せず、人口は依然三万余であった。中学校は城址の東南に濠を隔てて城と相対する位置にあり、東側に道路を隔てて山砲隊があった。


高田中学校時代の著者

中学校の校舎は昭和四年新築された木造二階建の校舎三棟と、一階建の理科の特別教室が東西に並行して建てられ、渡り廊下で連なっていた。その東側に講堂、雨天体操場、銃器庫、西側に雨天体操場、柔道場、プールなどが並んでいて、施設は新潟県下の中学校では最もよく整備されていた。

北側の校舎の一階が管理棟で、校長室、事務室、会議室、教員室などがあり、二階は教室であった。一学年五学級編成の校舎がつくられたが、当時は学級減で四学級編成で教室が余っていたので、二階の教室を地歴研究室として、研究室の半分は図書や標本を置き、半分に地歴の教員三人の机を置いたので、気楽であり勉強にも何かと都合がよかった。

地歴は主任の岡島正平氏と地理担任の松本保吉氏、それに私の三人であったが、間もなく、岡島氏は長岡中学に転任し、広島文理大学出身の田中懋氏が来任した。

高田中学は幕末の藩校修道館を受継いで、新潟学校第四分校、第五中学校高田学校、私立尋常中学校などを経て、県立高田中学校となったものである。校歌にもあるように時代の変遷の中で、学校も変わり、校風も時代思潮の影響を受けて、時には自由主義的、時には訓練本位とか進学成績を重んずるというように、一貫した建学の精神とか、校風の伝統とかいうものが確立していない学校のようで、昭和に入ってからも、生徒のストライキが多く、この点では加茂農林とは大分違った感じであった。

私は初めての教員生活で地位も末席であった。新任の年は学級主任もない上に、平常は地歴の研究室におり、同僚の歴史・地理の先生方が人柄のよい人達であったので気がねもなく、気楽に勉強できた。最初の年は三年の西洋史と一年の日本史、それに四年の地理を担任した。地理は少しは勉強していたが、その頃の地理学は地形学を主とした自然科学的傾向が強かった。私は地理というのは和辻哲郎博士の『風土』のように、人間を主体に考えなければならないと思っているので、どうも身を入れて勉強する気になれなかった。そのため、上級生の地理の授業は少々苦労した。翌七年度からは新たに中学校に公民科が設けられたので、四年の公民科を担任することになった。公民科は、法制経済が中心で、これまでも一応勉強しているので、公民科の教員検定試験を受けた。これは五月の予備試験、七月の東京の本試験も一回で合格した。

家 庭 を も つ
下宿生活一年余りで、加茂の有本先生のお世話で、農林学校卒業生の先輩田崎弘一氏の妹のシゲと結婚した。田崎家は新潟県の見附町に近い北谷村明晶の旧家で、弘一氏は新潟に勤めていて、父は早く死去し、母と田舎の家に生活していた。ちょうど公民科の本試験の前で新婚気分という余裕もなかったが、借家で世帯を持った。翌年には長女の美恵子が生まれ、家庭生活も落ち着いた。

学校の授業にも慣れ、教員としての生活も安定し、家庭も落着いて、気持に余裕ができると、社会の現状、教育のあり方というものについて考えるようになった。

小川校長は広島高等師範の数学科出身の実務家肌の人で、学校の経営に実際的手腕を持った人であった。職員の統率も生徒の訓育もしっかりしていて、成績を上げていられた。

昭和八年十二月小川校長が秋田県立大館中学校長に転出し、それと入れ替わりの形で、大館中学校から沓沢吉太郎校長が来任された。

沓沢校長は広島高等師範卒業後、京都帝国大学の哲学科を卒業した熱血漢の理想家肌の人で、観念的・独善的傾向が強かった。

赴任早々、新学期には生徒手帳の巻頭に、「男らしく、真剣に」と標語を掲げ、「凡そ男子の価値は、その為(な)さんと欲する所を遂行する意気にあり、志を立てては堅忍不抜、斃(たお)れて後已むの慨(がい)を持すべし」と記入し、スパルタ教育を高唱した。

昭和初期の思想界
前にも述べたように、世界的経済恐慌の嵐を受けて、関東震災以来の我が国の経済的弱点が表面化した。

昭和二年の金融恐慌以来、急速に不景気が深刻となって失業者が増加し、思想界は大正デモクラシー時代から、社会主義・共産主義的な思潮が高まった。これに対し、思想の弾圧が強化され、大正十四年には治安維持法が制定された。昭和三年には、三・一五事件、次いで四年の四・一六事件といわれる共産主義者の大検挙が行われ、三年六月には治安維持法が改正され、特高警察が強化された。

昭和の初めの日本の思想は東京帝大をはじめ、大学の教壇を中心とした理論的・学問的なマルクス・レーニン主義の思想運動が主で、杉森久英の『昭和史見たまま』に、「今日の目で見るとどうしてあんな夢のような考えにとりつかれたであろうと、ふしぎな気さえしてくるのだが、あの頃は共産党中央は一九三二年テーゼを金科玉条として、革命前夜を信じ、猛烈に活動し、知識階級もそれに同調して、資本主義の崩壊と共産主義社会の実現を固く信じていた。そこには "歴史の必然性"という重宝な言葉があって、日本には必ず共産主義政権が樹立されるものと信じられ、この必然を信じない者は頑冥な保守、反動の徒という風に思われていた。プロレタリヤの勝利と資本主義の没落は議論の余地のない自明なことと信じられていた。」と書いているように、革命の前夜という言葉が知識階級を支配した。

これに対し、体制側は共産主義運動に対し、実力以上の恐怖心をもって過度に反応をし、思想の弾圧が強化された。その結果は、亀井勝一郎の『わが精神の遍歴』の中で、自らの体験を通して述べているように「この時代の社会主義は唯物史観を口にしているが、実質は幼稚なロマンチシズムで、良心的なインテリはこの運動の実践を使命のように思って、真面目な学生や労働者は一種の殉教者的意識をもって活動し、共産党の実体や実力を超えた影響を社会に与えた。」

いつの時代でもそうであるが、後からふり返ってみると、人間というものは案外に馬鹿げたことを絶対的権威と考えて、証拠もなしに先入観的に信じ切っているものだ。特に日本人のように外来文化を教条主義的に権威としていて、経験主義的独自の学問と、個人の自主性の乏しい国民はこの傾向が強く、左だとか右だとか観念的なレッテルを信じやすい。特にインテリは観念的であって革命という言葉がいつの時代にも権威をもっている。そして、新聞なども時代の指導者として、英知と国民の良心を代表するよりも、流行を代表し、時流に迎合煽動する傾向が強い。その結果、一種のヒステリー状況を生ずるとともに、その反動として一方では国家主義的思想運動が起こった。北一輝や大川周明のような政治的国家主義の思想運動が起こり、愛国の名によって、軍部の一部勢力と結んで政治運動に発展し、北一輝の『日本改造法案』のようなものが青年将校の一部に尊重された。

満州事変と非常時の教育
軍の一部はそうした軍隊の力をもって遂に昭和六年九月、満州においては関東軍の一部が統帥を乱用して満州事変を起こした。そして、政府の方針に反し事変を拡大して行った。翌年七年には、現役軍人が犬養首相を官邸において射殺するという事件が起こり、遂に昭和十一年二月には二・二六事件を起こした。一部の青年将校が勝手に軍隊を指揮して、重臣を殺傷し、軍部内閣の設立を企てた。これは、「世論に惑わず政治に拘わらず」という明治以来の建軍の精神の根本を無視したもので、軍隊の最も悪い面が発現したものである。愛国の名によって、国家を滅亡に追い込む道であった。しかし、当時は、軍の上層部も政治家もこれに対して断乎とした信念と決断がなく、統帥の根本を誤って、遂に支那事変が拡大し、支那全土にわたる戦争となり、これを収拾することができないで、太平洋戦争となった。

そしてその一方では、教学の刷新の名において、京都帝国大学の滝川事件や、美濃部達吉博士の憲法学説を右翼学者や一部の政治家が軍部と呼応して攻撃した機関説問題などが起こって、思想弾圧が行われた。

当時は日独防共協定が結ばれ、ヒトラーのナチスの思想が我が国にも影響を強めた。高田中学でも沓沢校長の着任以来、スパルタ教育とか頑張り精神とかいって、非常時に対応した教育行事が多くなった。頑張り行軍というのもその一つであった。頑張り行軍というのは、五月二十七日の海軍記念日を期して、全校夕方学校を出発し、徹夜で柏崎まで約六七キロを歩くとか、糸魚川まで約六〇キロ歩く訓練である。また、受験決死隊といって、入学試験の成績を上げるとか、いろいろと標語を掲げたり目新しいことを実施した。鍛錬主義もよいけれども、鍛錬には西村大串先生がやったように、強い愛情と信念をもって、自ら率先して行うことが必要である。沓沢校長は、外部の評判や県当局の意向などに迎合したスローガンが多く、私には観念的な教育と思われ、批判的であった。また、当時広く読まれたヒトラーの『わが闘争』を読んで嫌な感じを受けたことを記憶している。もちろん邦訳の本で日本蔑視のことは除かれていたが、非人間的なものを直感したのである。

昭和九年の年頭の日記には「新しい年は非常時の叫びと反動の潮流の渦巻く中で、リベラリストは苦しむ年になろう。冷静な理知と確固たる意志をもって自己の充実をはかるべきだ」と書いている。しかし、なかなか自信をもって時代に対応するというようにはいかない。

こうした新しい時代に対処するために、日本精神の教育ということが言われ、文部省は、昭和七年国民精神文化研究所を設置し、日本精神による教育理念の研究と、中等学校教員の再教育を行った。昭和九年には、各府県に国民精神文化講習所を設置することになり、高田師範学校に新潟県国民精神文化講習所の分室が設けられた。師範学校長が主任になり、師範の教員とともに、中学校からは歴史科の田中教諭と私が研究員に依嘱された。講習所は紀要を出版したり、小学校教員を集めて一か月講習をやったり、講演会などをやった。

戦後は国民精神とか、日本精神とかいうと、一方的に反動思想だとか軍国主義のファッショ教育だとかいわれるが、講習所は当時の左翼思想に対し、国民思想の探求と新しい教育の理念を求めるものであった。高田師範の分室では、橋本校長も研究員の先生達も誠実な良識派で、一か月講習に集まった小学校の先生達も、教頭又は中堅級の優秀な人達であった。自由な温かい気分で、共に考え、共に学ぶという空気で、ギスギスした形式主義のところはなく、中学校よりは居心地がよかった。それだけに、自分の力の不足を感ずることも多かった。そして思想、学問というものを真剣に勉強しなければならないと思った。

この頃の思い出として今でも記憶に残っているのは、昭和九年十月に、新潟で文部省主催の国民精神文化講習所の研究員や講習生を集めて開かれた短期講習会で、その時の講師の一人であった文部省の督学官が、

「マルキシズムは学問上の理論としてはすぐれており、理論ではこれに打ち勝つことはできないが、我が国体からこの思想を認めることはできない。われわれは大和魂をもっているので、この心をもってマルキシズムに打ち勝たなければならない。特に教育者は母の愛をもって学生生徒を正しく導かなければならない」

という意味の話をしたことである。これは当時の指導者とか、学者とか言われる人々のもっている考え方を正直に述べた言葉である。正直といえば正直であるが、私は納得できなかった。当時の私は、学問というものは真理でなければならない。その真理に拠って、思想には思想をもって、学問には学問をもって、相対すべきであると思った。思想に対し、大和魂を持ちだして、対抗しようというのは反対であった。

しかし当時のマルクス主義者の革命理論にも、納得できなかった。マルキシズムは科学的社会主義であるというが、十九世紀中葉の西欧の社会経済の事実に基づいてたてられた経済理論を、我が国の現代に直ちに適応しようというのは実証的でなく、科学ということはできない。我が国の実態も国民意識も無視してコミンテルンのテーゼをそのまま絶対的権威としている日本共産党の方針には賛成できなかった。また、当時のマルクスの共産党宣言に基づいて、歴史は階級闘争の歴史であり、階級闘争によって資本主義は必然的に崩壊し、社会主義国家となり、社会主義の国家も消滅して共産主義の社会になるという、唯物史観の公式的歴史観についても納得できなかった。歴史を形成しているものには、階級闘争もあるが、戦争には、民族間の戦いもあり、人種闘争もあるし、宗教戦争もある。階級対立も歴史を見る一つの見方ではあるが、それだけで歴史を割切ろうということは歴史を勉強しているものとしては承認できなかった。まして、ソ連をわれらの祖国と呼んで、第三インターの下に団結するなどということはできない。しかし、学問とか真理とかいっても、これが真理だというようなものは自分には把握できていない。そこに不安と焦燥があった。

こうしたことは後で思えば、書物によって勉強し、学問とか真理とかを書物の中に求めようとする者が必ず陥ることであり、特に、時代の転換期の、思想の混乱時代には真面目に学問をやろうとすれば、何らかの形でこうした壁にぶつかるのである。平安末期、比叡山において教典解釈本位の当時の仏教に対し、法然や道元が対決した問題でもある。自分などはそうしたぎりぎりの対決というのではないが、そうしたような行き詰りというか、不安が強かった。

この頃、島崎藤村の『夜明け前』が単行本で出版された、その中に出てくる幕末維新の南信・東濃地方の平田学派の国学と、当時の社会の実情の関係を読んで、歴史というものの真実に触れたように思い、文学の力に感心した。そして、私どもの扱っている砂をかむような暗記本位の教科書や入学試験のための歴史の講義をしていることの空しさを感じた。それとともに、主人公・青山半造の、真実を求め、良心的な生き方に共鳴しながらも、激動の時代の波にしだいにおし流されて、遂に座敷牢の中に閉じ込められている晩年の半造の姿に、自分の前途を見るような空しさを覚えた。

文芸家的な素質、芸術家的な感覚のない私には、この辺の事情を的確に表現できないが、真実を求め、より正しく生きぬくことのむずかしさだけは、実感として把えることができた。

昭 和 の 世 相
このように、昭和初期を思想史的に見ると、この時代はマルキシズム的な思想と軍国主義的思想の対立の図式で説明され、私などもこの二つの思潮の対立の中で混乱させられ苦しめられた。しかし、よく時代の世相、国民多数の生き方、社会生活の実際の立場で見ると、この昭和初期の時代思想というのは戸川猪佐武著『昭和の素顔』の中で述べられているように、大学の教壇では京大の河上肇博士や東京帝大の大森義太郎、平野義太郎、脇村義太郎のいわゆる三太郎と呼ばれた学者達や、九州帝大の向坂逸郎、石浜知行、佐々木弘雄等少数の左翼教授と言われた人達、及び民間の左翼思想家達とそれを中心とした学生達、例えば東大の新人会や社会主義研究会などの純理論的な思想運動としてのマルクス・レーニン主義の運動、文化面では労農家芸術連盟、前衛芸術家連盟、全無産者芸術団体協議会、プロレタリア作家同盟などいろいろ組織されたが、いずれも前衛的な文化運動と、労働組合や小作組合も一部の急進的思想家によって指導されたストライキを主とした運動であった。それは新聞紙上や『改造』、『中央公論』などのインテリを読者とした雑誌で時代の思潮として報道された時代で、社会に大きな波紋を起こしてはいるが、実際はインテリを主とした観念的な革命運動が多く、大衆を根底から動員した大衆運動とは言えなかった。

また、軍部の動向とか、軍部の独裁とかいわれても、一部の政治づいた急進的な青年将校がナチス流の国家主義改革を唱え、これに大川周明、北一輝等の急進思想家や、井上日昭、橘孝三郎などのテロリストが呼応したもので、大多数の軍の将校は軍人の本分を守り、国防を考えてその軍務に服しており、一般の兵隊たちは国民の義務として軍務に服しているので、軍部の独裁政治などは考えていなかった。

そして、一般の国民大衆は第一次大戦後の経済の繁栄と都市化の進行によって、享楽的なアメリカ映画の影響を受け、また当時のラジオやレコードの普及によって、西条八十作詞、中山晋平作曲の「東京行進曲」や藤原義江の「出船の港」とか佐藤千夜子の「波浮の港」などの唄に代表されるレコード全盛の庶民的都市風の文化の全盛時代であった。

一般国民の読物も雑誌の「キング」や「主婦の友」「家の光」などに代表される、日本の伝統的庶民意識とアメリカ風の享楽的大衆主義をチャンポンにしたようなものが多くの大衆に読まれていた。

このような昭和戦前の社会風潮の中において、ソ連的な共産主義思想でもなく、アメリカ流の大衆的な文化主義・享楽主義にも流されない真の日本人として在り方を確立するための郷土文化の研究や国民精神の研究、日本の伝統的な国民性と西洋の科学文明を調和した国民文化を探求しようと真剣に考えている人達、少数派ではあるが、そうした真に道を求める人達もあった。そして、私はいつの時代でも時代の表面にある右とか左とかの嵐によって起こる波浪の底に、静かに低きに向かって流れる水の本性があるように、永遠に生きている日本人の心があることを忘れてはならないと思うのであった。

われわれは時代思潮とか社会思想とかいうと、何か一人一人の人間の心から離れて、自然界と同じような不変の法則があるように思うが、人間はそれぞれの程度はあるが、自主と自由の心をもって判断し、行動しているのである。社会意識とか時代思潮とかいうても個人を離れた存在ではない。しかし、この分りきったことをしっかり自覚しながら、時代の思想を達観して生きて行くことは容易でない。考えてみれば、この頃の私はこの問題についての一つの転機に直面していたのであった。


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八 国民精神文化研究所と紀平正美先生

国民精神文化研究所
国民精神文化研究所は前に述べたように、昭和七年八月文部省が思想対策として、国民文化の研究と教学の刷新を目的として設立し、主として中等学校の教員の再教育を行っていた。

教員研修科の研修期間は六か月であった。私は昭和十一年十月に新潟県から派遣され、研修生として入所した。研修所は省線目黒駅に近い品川区上大崎長者丸にあった。研修所長は文部省の普通学務局長や社会教育局長をやられた関屋竜吉先生で、事業部長は紀平正美(きひらただよし)博士、研究部長は吉田熊次博士であった。その下に専任の部員のほか、全国の各大学や各方面の権威者が講師として講義に当たられた。

研修は型にはまった学問や知識を与えるというのではなく、これまでの既成の学問や知識を検討、反省し、講師の先生と共に学び考えるという方針で、きわめて自由で活気のある研修であった。研修は講義・実地視察・討論・個人研究などが適当に編成されていた。

これまで主として独学で勉強してきた私には、当時各界の権威者といわれる先生方に直接に学ぶということは大変ありがたいことであった。また、全国各府県から派遣されてきた教員の人達と、年齢や地位や専門の相違を離れて、研修生として共通の立場で学びかつ討論するということは、教師の人物や実力を知るよい機会であった。そこで、私はこれは自分の学問や思想に対する行詰りを打開するのに絶好の機会と思い、裸になって率直に遠慮なく先生方にぶつかっていった。そして、それぞれの講師の方々の人物、学問の力が直接にこちらに伝わってくるのを感ずることができた。

真宗の金子大栄先生は『歎異抄』を講義して下さったが、座談会でわれわれの「現代の仏教は葬式仏教に堕して、真の仏教の精神が失われているのではないか」という質問に、先生は静かに「葬式仏教も結構ではありませんか。もし親が死んだ時に、葬式をしてくれる者がなくては困るでしょう」と話された。先生がこれを話される背後には、若い時代に親鸞の仏教を深く探求し、真宗の改革を唱えて破門されるような体験をもっていられ、誰よりも仏教界のあり方を真剣に考えていられる先生の信仰の重みがあることを深く感じ、頭が下がった。

西晋一郎博士のように、ニコニコ顔で、淡々と石田梅岩の『都鄙問答』を読むだけで、底の知れない人間的な深さを感じさせる名人芸ともいうべき講義もあった。

また、国史の西田直二郎博士や久松潜一博士のように、真摯な学問的な講義で、感銘を与えられるものもあった。

しかし、有名大学の教授とか多くの著書を出している有名な学者でも、実際に講義を聞いてみると、外国の学説の請け売りか、内容のない言葉だけの講義もあって、ほんとうの学者、学問とはどういうものかを知ることができた。

課外の講義もいろいろあったが、宮城実大審院判事が当時大問題であった三・一五事件の佐野学、鍋山貞親の裁判について話され、各方面の反対を押し切って公開裁判としたことについて、「天皇の名による裁判は、同じ国民を、闇から闇といわれる非公開で裁くことはできない」という信念をもって裁判をやられた模様を話されて、感銘の深いものがあった。

また、高谷覚三氏は「共産党員として革命後間もないソビエト・ロシアに潜入して、国境を越えて赤旗を見た時は心の躍るような感激を受けたが、当時のソ連にいた片山潜等とともにコミンテルンに外国人として滞在して、ソ連共産党内の権力闘争の苛烈さと、外国人に対する差別等を見て、コミンテルンの実体が段々分って、自分の誤りを自覚し、共産主義に反対することを決意した」と、その実際を率直に説明された。これは現在では多くの人が知っていることだが、当時のわれわれにはきわめてショッキングな話であった。

実地見学としては、日本青年協会の葛飾道場の農村青年教育の実際等について視察した。また、その頃貧民窟の学校として有名な深川の富川小学校を視察して、椎名竜徳校長の体験談を聞いたり、深川一泊宿泊所を見学して、当時の東京のドン底生活の実態を聞き、東京の一面を知ることができた。

このようにして、種々の方面から、教育の問題や思想について考えさせられた。そうした中において、紀平正美先生の講義は、私にとって最も感銘深いものであった。

先生は哲学の学説や抽象的な理論を説くというよりは、自分自身の信念、自分の哲学をもって当時の学問や思想を批判する方向で説かれた。先生の講義を聞いている中に、段々とこれまでの自分の学んだ学問とか知識の根拠について、考え直さなければならないように思われてきた。そして、これまで自分が学問とか真理とか考えていたものを再考しなければならないと思い、紀平哲学について真剣に勉強するようになった。

そうした意味で、紀平先生から教えを受けたことは自分の一生において、一つの大きな転機を与えられることになった。そこで、紀平先生とその哲学について述べなければならない。

紀平先生と行の哲学
紀平正美(きひらただよし)博士は明治七年三重県安濃郡合明村(現在津市内)に生まれ、第四高等学校を経て、東京帝国大学文科大学哲学科を明治三十三年卒業し、国学院大学、東洋大学の講師などをやられた後、大正八年学習院教授となった。傍ら、東京帝国大学、東京高等師範学校などで哲学を講じられた。昭和七年国民精神文化研究所が設立されると、事業部長として研修生の教育を担当された。

西洋哲学を研究されて、明治四十一年『知態から行態へ』の論文で「矛盾に対する三様の態度」として哲学についての根本問題を提示し、次いで岩波書店の哲学叢書の『哲学概論』、『認識論』を出された。『哲学概論』は西洋哲学を体系的に説明されている。『認識論』は日本においてこの分野で最初のものといわれる。さらに、仏教についても研究して、『無門関の解釈』を著し、その序文に、「人間が考え出したものを人間の考えで得られぬ筈はない。禅宗には門外漢であるが、敢(あえ)えて無門関四十八則を論理的に解釈してみた」と述べていられる。そして、西洋哲学、特にヘーゲルの哲学と仏教、儒教の王陽明の知行合一の論や、神道を統合して、紀平哲学ともいうべき『行の哲学』を大正十二年に著された。昭和五年には『日本精神』を著し、われわれの研修にはこれを「修理固成の論理」という題目で講義された。

前記の『哲学概論』では西洋哲学を体系的に説明されているが、その結論で、カントの「われわれは哲学を学ぶことはできない。哲学的に考えることを学ぶことができるのみである」という言葉を引用して、「他人の哲学は自己の哲学思想を開発せしむる用あるのみ。即ち参考である」と述べ、西洋の哲学を学ぶことはそれを参考として自らの体験と思索によって、全人格の統一としての哲学を組織することが、哲学を学ぶ者の任務であると述べていられる。そして、『行の哲学』において、先生は自己の哲学を展開された。そして、その結果として「原理なき生活は空虚なり。実生活に基かない知識は戯論(けろん)なり、如実の経験を組織し、転回して価値を創造するものを人格という」と述べて、哲学の中心に人格を据えていられる。

昭和五年の『日本精神』には、昭和初年の思想問題について「社会思想の混乱対立ということは、学問が職業的概念の遊戯の域を脱し、漸く生活そのものに即してきたことを示す。即ち、それだけ進歩してきたと見ることができる。同時に、そこに確固たる自己の見出しがなくてはならない。もしそれがなければ、只思想の混乱あるのみ。遂には堕落の厄に罹らなければならないであろう。<汝自身を知れ>の警語が一層大切で服膺(ふくよう)しなければならぬ」と述べて、国民の自主と自覚を呼びかけている。

この"日本精神"という言葉が、当時の国粋主義的思想の代表のように用いられ、流行した。そして先生は、狷介(けんかい)とも思われるほど自主独立の立場に立たれたので、学界の主流からは孤立されて、特に、戦後は保守反動の代表のように言われた。

先生が最も強く主張され、批判されたのは、西洋の学問は哲学にしても科学にしても、長い歴史とその風土民族性の中で育ち、その時代の社会生活の事実の中から、それぞれの学者、思想家が生涯をかけて研究し、体験と思索によって築き上げたもので、哲学の論理も科学もその体験の上において成立しているところに価値があるのであって、その結論のみを文字や言葉で受取って、抽象的な知識を絶対的権威のように振り回し、自分に都合の悪いものは観念的とか、反動的とか言う、いわゆる進歩的知識人や、科学の名によって、イデオロギーを絶対権威として、歴史や社会生活の異なる我が国に直接適用しようとして、思想の混乱を招来しているのを排撃していられるのであった。当時の北一輝や大川周明等のナチス流の政治的日本精神とはちがうものであった。

先生の『行の哲学』をはじめその著書は、難解で独断的であるといわれる。それは先生の著書は抽象的・客観的な知識の体系を説明しているのではなく、人格的に把握された体験を具体的に述べているので、自分の体験による行として把握しないと分からないのである。ちょうど道元禅師の正法眼蔵が難解の書であるといわれ、禅家の公案や語録が抽象的な知識では分らないというのと同じである。

もちろん当時の自分には、哲学についての知識も体験も乏しいので、先生の哲学について理解できたというよりは、むしろその純粋、誠実な人柄に直接触れ、他人の受け売りでなく、自分の考えを自分の言葉で説く熱意に感激して、傾倒したのである。そして、禅でいえば一種の悟りというか、紀平先生の言葉によれば、一八〇度の転回というか、知の世界から行の世界へ、抽象的知識から自己自身の把握へと転回の機縁を与えられた。

この年の年末の日記には「論語に三十而立(にしてたつ)とあるが、自分も三十歳にして、紀平博士によって人生の一つの転機を与えられた。しかし学も浅く、人間として依然未熟で、これからがほんとうの勉学修業である」と書いている。

富永半次郎先生との出会い
この研究所の研修期間中にもう一つ大きな機縁を与えられた。研究所で、われわれ研修生の世話係を担当していた助手の小山門作氏と親しくなり、研修も終わりに近い頃、小山氏から「俺の本当の先生に会って見ないか」と言われて連れて行っていただき、富永半次郎先生にお目にかかったことである。富永先生は主として戦後私が師として教えていただいたので、先生との邂逅については後に述べることにする。

国民精神文化研究所の研修は僅か六か月の短い期間であったが、私の一生には大きな意味をもっていた。紀平先生に出会って一つの転機を与えられるとともに、富永半次郎先生にお会いする機縁を得ることができたことである。

しかし、転機といっても、これで自分の学問が成立したとか、悟ったとかいうのではない。これまで学問とか真理とかを人の書いた書物を読み、外に知識を求めることだと思っていたのが、ほんとうの学問は自分が問題であり、自分自身が明らかになって、その上で自分の体験を通して把握しなければならないということを教えられ、これまでの行詰りと圧迫感がとれ、目先が明るくなったように思っただけである。それは一つの関門ではあるが、本当の勉学修業はこれからのことである。そして、それはますます困難な道であることが、間もなくいやというほど思い知らされた。

これを禅の修業で、見性の十段階を説明した十牛図にたとえれば、紀平哲学によって一八〇度の転回というのは、ちょうど師匠の教えによって牛はこっちの方だと方角を指されて、牛の姿をちらりと見たと思う段階で、問題は、自分自身であり、自我に問題があるのだということに気がついただけで、牛をつかまえた訳ではない。牛をつかまえても、それを自分のものとして飼いならし、訓練するという実際の仕事は大変である。自我というものは角を振り立てる暴れ牛のようなもので、これを陶冶訓練することは、全く命がけのことであることを思い知らされるのであった。

私は後に述べるように、戦時中は病気で療養生活を送ったが、終戦後社会復帰をし、愛知県に勤務するようになって、紀平先生をお尋ねしたことがある。幸いに駒込千駄木町のお宅は戦災を免れ、書斎は昔のままであったが、先生は戦後教職追放を受け、事志と違った時勢と失意で寂しそうであった。そして健康も衰えられ、昭和二十四年、戦後の日本を憂い、寂しく逝去された。


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九 橋田邦彦先生と行としての科学

橋 田 邦 彦 先 生
国民精神文化研究所の研修を終わり、高田中学校に帰って新学期からまた教壇に立った。教室の授業には幾分自信をもつことができたが、学校の雰囲気は相変わらずである。沓沢校長の非常時教育はますます熱が上がっていた。

自分はまず『行の哲学』をしっかり読み直して、自分のものにしなければならないと思った。それとともに、何か具体的な実践方法のようなものを身につけたいと思った。西村大串先生が一生の仕事としていられる道元禅師の正法眼蔵を自分なりに勉強したいと思った。

その頃出版されていた彦根高商教授、秋山範二氏の『道元の研究』があったので、これについて勉強した。これは、西田哲学の学者である秋山氏が、西田哲学によって正法眼蔵を整理解釈されたもので、眼蔵の手引としてはよい本である。また、この年の夏休みには加茂の大昌寺に一週間ほど泊って、西村先生から直接「正法眼蔵弁道話」について講義をしていただいた。ちょうど朝学校も休暇であったので、早朝教室に先生と二人きりで相対して教えていただいて、深い思い出となった。しかし、眼蔵を自分のものとするのは容易でない。

研究所から帰って来て一年ほどたった頃、その前年(昭和十一年十一月)に橋田邦彦先生が、文部省教学局主催の日本文化研究会で講義された『行としての科学』が一冊の本として出版され、日本文化協会から送られてきた。(これは後に橋田先生のその他の講演記録と合わせて岩波書店から『行としての科学』として出版されている。)

橋田先生については、紀平先生が講義の際、「<科学>ということがほんとうに分かっているのは橋田邦彦君である」と称揚されていたが、この『行としての科学』を読んで非常に感銘を受けた。そこで、突然失礼とは思ったが、その感激を手紙に書いて、さらに教えを請うた。先生はお忙しい中を、弟子である東京帝大生理学教室の山極一三先生を通じて、鄭重な手紙と正法眼蔵についてのパンフレット等と、先生の著書として出版されていた『碧潭集』を読むように紹介して下さった。この『碧潭集』は次いで出版された『空月集』とともに、先生の科学について説かれた論文や講演などが集められていて、科学と科学者、科学と宗教、科学と哲学などについて先生の考え方を述べられていた。

先生はまた、正法眼蔵について研鑽された成果を、主として生理学教室の人々に講義され、それを『正法眼蔵釈意』として戦時中に三巻まで出版されたが、第四巻は、戦後門下の人達の手で出版された。この第四巻には、杉靖三郎氏が橋田先生の略伝と先生の人となりについて述べていられる。

私は昭和十五年内務省に勤務するようになった時、東京帝国大学生理学教室に挨拶に参上した。この時はちょうど橋田先生が文部大臣に就任されて間もない時で、教室では山極一三先生にお目にかかった。山極先生は「先生もとうとう引っぱり出されました。日本の教学のためにはやむを得ないことですが、先生のためには困ったことです」と言っていられた。

私はその後間もなく病気になって、戦争中は療養生活を続けていたので、とうとう一度も橋田先生にはお目にかかることができなかった。終戦後、先生は戦犯として拘引される前に服毒自決された。

『行としての科学』や『正法眼蔵釈意』その他、前に掲げた書物等を通じて、科学というもの、科学者の在り方について教えていただいたことの要点を述べる。

科 学 と 科 学 者
橋田先生は『正法眼蔵釈意』の第一巻の序に、生理学を講釈する者が、生理学の根本である生命とは何かということが分らぬようでは、講釈に値しないという切実な問題から、「道元禅師の正法眼蔵に親しむこと爾来二十有余年、生理学者としての体認を廻向返照して聊(いささ)か "全機"と "者"の何たるかを識り、日本科学の根源を見出し得て、無上の喜悦と感激に溢れて居る」と述べていられるように、正法眼蔵の "現成公案"の巻によって、科学の根本を体得された。

「正法眼蔵現成公案の巻に "自己をはこびて萬法を修証するを迷とす、萬法すすみて自己を修証するは悟りなり"とある。この句によって科学が宗教と一つにならなければならぬことを端的に指示されていると考え、科学も人間の働きによって創造されるのであり、宗教も人間の働きそのものである。いづれも、そのどん底のもの、即ち人の人としての働きを本当に把握することである。」と述べていられる。

「科学は総てのものを客観として極め尽くさんとする立場である。しかし、というのはというものがなくては意味がないものである。尚進んで言えば、なくしては存在しないのである。この意味で、科学も対象とするに対しとなる人間の働きによってできているのである。このとしての人間の働きが正しくとして働いているという保証の下において、初めて科学の唱える一般的妥当の意味が確立するのである。」

「科学精神というものは科学的立場において、あらゆるものを観(み)、あるいは把(とら)えるということである。"主義"とか "論" だとかいうものが、概念的形態として唱えられているが、われわれの活動を主義とか論とかによって規定しようというのが無理である。自然科学は事実に適合するところに科学としての意味があるもので、自然科学的知識とは "実証された" 知識であるということに他ならない」と述べられ、何々主義とか何々論とかいって、科学の名で、実証もない概念を振り回すことを批判し、科学の本質を明らかにしていられる。

こうして、科学及び学問というものを明快に説明されるとともに、科学が真に客観的真理として成立するには、主である人間の働きが正しく働いていることの保証が根底になければならぬ。結局、人間の問題である。自然科学であれば、実験と観察によってその事実を確認できるが、歴史とか法律とか経済とかの学問においては、生きた人間社会が対象であるので、実験によって理論の正否を確認するということができない。その主義や論は後から事実によって証明されるほかないので、結局それは自己が正しい人間であるという保証の上において、初めてそれが学問として成立するものであるということが明らかになり、ソクラテスが言うように "汝自身を知れ"ということに徹しなければ、真理だとか専門家だとかいう資格のないことを知った。

こうして、紀平先生の『行の哲学』によって、学問とか真理とかは、まず、自己を明らかにしなければならないということがますますはっきりした。そして、西村大串先生が「真の人間になるのが学問の目的だ」と言われたことがはっきりと分った。しかしその道はますます遠く、嶮しいことを知った。

道元禅師の「自己をはこびて萬法を修証するを迷とす、萬法すすみて自己を修証するは悟りなり」ということは言葉としては分ったが、しかし、一歩近づくと、相手は又一歩自分から向こうに行くようである。


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十 高等文官試験に合格

日支事変と非常時
昭和十二年盧溝橋事件が起こって、とうとう支那事変は日支の全面的戦争に向かって進んで行った。予備兵が高田に召集され、上海派遣軍が編成された。加茂農林の友人達や高田中学の同僚も召集を受けて出征した。高田師範学校の教頭で新潟県国民精神文化講習所の研究員として一緒に仕事をし、誠実な教育者として尊敬していた村山紀一郎氏も四〇歳に近い年齢で召集を受けた。

出征に際し、お宅へ挨拶に伺ったら、「我々老兵は占領地の後方守備位しかできないから心配ありませんよ」と答えて、軍刀を腰に予備将校として出征された。しかし、高田で編成された倉林部隊は出征後間もなく上海近くの大場鎮の激戦で全滅的な打撃を受けた。そして、村山教頭の戦死の広報が来た。それを追うように、戦場から私あての葉書が着いた。

  こうろぎの 鳴く音さびしき戦の 荒れにし庭に 庵(いおり)するかも

という歌が書かれていた。

日支事変はしだいに拡大し、南京攻略から徐州会戦、漢口攻略と拡大して行き、全面戦争の泥沼に陥っていった。そして、いつ誰に召集が来るか、戦死の通知が来るか分からない時勢となり、非常時の嵐が強くなった。

高田中学では沓沢校長の観念的精神主義の教育は熱を高め、それにこの頃は『生長の家』に凝って「私はつまらぬ人間だが、神様の言葉は間違いない」と神がかりの傾向をもってきた。こういう時代こそ落着いて、温かい心をもって生徒に接し、冷静に人生を考えるように教えることが大切だと思うが、私は有本先生のような無私の教育者に徹する資格も自信もない。そして自分の無力さと自責の念だけが深く感じられるだけで、自信がなくなって来た。

高等文官試験をめざし
そこで、この際できれば方向転換をしたいという気持と、何か自分の努力目標をはっきりしたいという苦しまぎれという方がよいかもしれないが、以前やりかけた法律の勉強をやり直して、高等文官試験を受けてみようと思った。

国民精神文化研究所に入所以来、二年ほどは、哲学や宗教の書物を読んだり考えたりしていた。法律や経済については以前一通り勉強したし、参考書も持っているが、高等試験は最高にむずかしい試験である。相当大量の法律書を勉強しなければならないので無理とは思ったが、受けてみるため一応代表的な参考書を集めて勉強した。その頃は大学卒業者等は司法科よりも行政科を第一に考えて受験したようだが、私は大学も出ていないし、年齢も三〇歳を越えているので、もし合格しても役人になるのはむずかしいだろうから、できれば弁護士をねらって司法科の試験を受けてみようかというようなつもりで、こつこつ勉強を始めた。

高等試験を受けるには、大学生はもちろん、独学で受ける人も数年はそれに専念して勉強するのが普通だが、私は生活の問題があるので学校に勤めながら、誰にも言わずに準備をしようというのだから、無理な話だ。しかし、とにかくやってみようと、一応参考書を読み、最後は当時法律書のダットサンといわれた岩波新書の法律書でまとめることにして準備を進めた。

そして、昭和十四年四月に思い切って願書を出すことに決心した。しかし、年度末の仕事や友人の家に不幸などがあって、いざ願書を書く時に、商法は量が多くて予定通り進んでいないし、民事訴訟も手つかずで、司法科はどうも無理だし、今年はどうせ瀬ぶみのようなものだから、行政科なら一応各科目とも何とか間に合うと思って、行政科の願書を四月十六日に発送した。

いざ試験を受けるとなると、高等学校か専門学校を卒業していない者はまず予備試験を受けなければならない。予備試験は英語と論文だ。論文は問題ないとしても、英語は時事英文の和訳と英訳で、英文和訳はともかく、英作文は苦手だと思った。仕方がないので法律の勉強の合間に、英文の雑誌や新聞を少し読んだ。

五月五日学校から帰ってから、夜行で上京し、翌日の試験場の東京外国語学校の様子だけは確かめ、前に下宿した目黒の新昌閣に泊って試験を受けた。英語の試験は英文和訳のほうは大体よいが、和文の英訳は経済記事のようなもので、予想外に長い文章のため大分面くらった。午後の論文は自分の力相当に書けたと思ったが、結局英作文で失敗かと思って、その晩夜行で帰って、翌日は平常の通り学校に出て授業を行った。

これで今年は一段落したから、来年はじっくりと準備して本格的に受けようと思った。ところが、六月一日学校から帰ると、予備試験合格の通知が来ていた。これは大変だ、本試験まで二週間しかない。しかし、今さらあわてても仕方ないので、学校の方は授業を続けながら、大急ぎで一通り仕上げをした。学校には試験日の六月十五日から十七日まで欠席届を出し、夜行で上京し、夜行で帰るという強行日程で、必須科目の憲法、行政法、民法、経済学と選択科目のうち刑法、刑事訴訟法を受けた。そして、一旦学校に帰った上で、最後の選択科目の国史は六月二十四日に上京して受けた。

試験場は日比谷の旧議事堂の庁舎で、日程に従って一応全出願科目は受けたが、無理な受験で、自分で考えても成績は満足できなかった。今年は駄目だろうが、予備試験はもう受ける必要がないし、試験の様子も見当がついたので、来年は本格的に準備をして司法科を受ければよいと思った。

それで、七月には学校の学期末試験や、担任生徒の成績表の作成に忙しく、八月には生徒の勤労奉仕の監督や国民精神文化講習所の講義などをやり、お盆には郷里に帰って墓参りをした。

こんなことで九月の新学期が始まった。九月八日付で、高等試験本試験行政科筆記試験合格の通牒と、十月三日から六日までの口述試験の日程を指定し、旧議事堂に出頭するようにとの通知が来た。

口述試験は必須科目のうち憲法と行政法、それに国史を選択していたので三科目である。国史は今さら準備の必要もないので、憲法と行政法に一応目を通して整理した。

十月三日午前の国史から受けた。国史の口述試験場には、私の他に受験者らしい者はいなかった。試験場に入ると、辻善之助先生と西田直二郎先生が並んでいられた。辻先生から質問され、まず「竹内式部」のことを聞かれたが、何を聞かれても答えるので、先生もニコニコ顔で「君はよく知っているね」と言われた。「竹内式部は私の県の人ですから」と答えたら、「そうか」と言われた。それから平安時代の国司制度について聞かれたが、これも専門的に答えた。西田直二郎先生は国民精神文化研究所で講義も聞いたし、先生の『日本文化史序説』は自分の愛読書でもあるので、いろいろ専門的に尋ねられたが、十分に答えることができた。試験を受けているというよりは、国史の研究について話し合っているように、随分長い時間であった。

十月四日の行政法は杉村教授の市町村地先水面のことから聞かれたが、行政法の本には余り書いてない問題で質問の趣旨がつかめなかった。これは県の地方課などの行政の実際事務としては絶えず扱う問題である。地先水面は領土の一部ではあっても、市町村の区域には入っていなくて、埋立地は区域編入を要するということであるが、当時は知らなかった問題である。そんなこともあったが、他のことは大してむずかしいことはなかった。

五日の憲法は黒田覚教授と筧博士が並んでおられた。主として黒田教授が、国務大臣の責任と総理大臣と各省大臣の関係などを聞かれたが、格別な問題はなかった。こうして口述試験を終えて帰った。

暫くすると、十月十一日付で合格の通牒とともに、合格証書を授与するから、元和田倉門内、内閣庁舎内高等試験事務所に十月二十五日午前九時に出頭せよと書いてあった。

ところが、試験が終わって帰った翌日、妻が急病で入院して手術をした。一時は生命も危ないということであったが、幸いに医師の処置が良かったために一命はとりとめた。しばらく入院しなければならなかったので、実家の方に連絡し、家内の母に来ていただいて病人の看病を願い、家の方は私の母に来てもらって子供達の世話をしてもらった。私は病人の世話やら、学校の勤めで上京することができないので、合格証書は郵送するようにお願いした。人生には何が起こるか分らない。もし試験中で不在の時に起こったらと思ってぞっとした。

合格通知書が送られて来るとともに、成績についても知らせがあった。成績は公式の発表ではないが、参考のためにつくったのであると書いて、十四年度の高等試験行政科の全科目受験者の合格は一九六名で、私の順位が二〇番とあった。これには驚いた。準備不足で成績はよくないと思ったのだが、こんなよい成績で合格するとは思ってもいなかった。高等文官試験は法律の勉強を志す者のほとんどが一度は目指し、何千人という人が受験しているので、私のような田舎で全くの独学者がこんな成績で合格するとは思ってもいなかった。

合格通知はもらったが、家内の入院騒ぎで、合格証書を頂きには行けなかった。友人などで少しは合格を知った者もいたが、別に新聞で取り上げた訳ではない。自分でもたとえ合格しても、中央の役所で採用してくれるものとは思っていないので、来年はしっかり準備して司法科を受けようという気で、相変らず学校に勤めていた。

高田中学を去る
その頃、新潟県の経済部長の山崎隆義氏が私のことを聞かれて、親切に私を呼ばれた。私が内務省の採用試験は受けていないというので、今年はとりあえず新潟県の方に勤めてはどうかと言われた。

私は前にも述べたように、高田中学校はできれば変わりたいと思っていたので、年度末に学校を辞めて、県庁に採用していただくことにした。

三学期の授業も終わり、成績査定もすんで、三月八日には四年生の終業式が行われた。幸いに私が学級主任をやった四年二組は一人の落第もなく、進級させることができたのでまず一安心であった。三月限りで退職を申し出て新潟県庁に行く準備をした。

家族は明晶に帰して一人で高田にいると、三月二十九日に突然県の山崎部長から、上京して内務省の町村人事課長にお目にかかるようにという連絡があった。そこで、大急ぎで上京して内務省の人事課長室に出頭し、町村人事課長にお目にかかった。

町村人事課長は親切に内務省採用のことについてお話をされた。「君は試験の成績もよいし、これまで田舎におったのだから、内務省の本省で勤務した方がよいと思う」と言って、採用の手続を進めて下さる旨を話された。

私は内務省に採用していただき、東京に勤務できればそれに越したことはないので、ありがたくお願いをした。直ちに新潟に帰って、山崎部長に会って報告すると、山崎部長も喜んで、県の方で進めていた採用の手続はやめて、本省の方で採用手続を進めてもらうようにされた。

四月二日に内務省採用の旨の電報及び電話があって、高田中学では新年度の始業式に合わせて送別会をやっていただき、退職の挨拶をした。


高田中学校の教員一同――(昭8)

私が一人で上京の仕度などをしていると、新しく五年に進級した直江津の生徒で、私が担任した生徒が五、六人尋ねて来た。この生徒達はとかく問題の生徒で、彼等の言葉では「目をつけられている連中」であった。「先生、俺達が卒業するまで、もう一年高田に居てくれないかね。先生が学校に居なくなると、俺達は退学させられると思うから、何とか頼みます」と言葉は粗雑だが、真実こめて言った。私は胸が熱くなった。私は教員として十分その責を果たしたとは思わないし、教育者としては失敗だと思っていたが、学校を去るに当たって、この直江津組の連中に心から頼りにされたということは嬉しかった。それとともに、中学校で生徒を教育して時には手こずったこともあるが、一度も生徒を殴ったことがなかった。これは私が自信と熱意が足らなかったためかもしれないが、それは私にとっては、せめてもの慰めであった。

しかし、今さら退職をやめることもできないので、「私が居なくなっても、君達が悪いことさえしなければ、学校を止めさせられることはない。君達も五年になったのだから、自重して卒業までおとなしくしておれよ」と言って別れた。

これは後の話だが、一年経って、私が東京で病気で寝ている時に、この中の中川がわざわざ私の家を尋ねて来て、「実は先生、私は高田中学を退学になって他の学校に転校したが、今度卒業しました」と言って来た。

四月六日の夕方高田駅を出発して上京した。駅頭には私が担任した旧四年二組をはじめ、随分大勢の生徒が集まって来て送ってくれた。

汽車が高田駅を出て、新井駅に止まった時、ふと気になって窓を開けると、薄暗くなったホームに一人の生徒が私の乗った席の窓の前に来て、悲しげな顔をして黙って頭を下げて見送った。この生徒は以前私が担任したことがあって、時々病気の発作を起こしたが、私は励まして学業を続けさせてきた生徒である。一般の生徒が集まった高田駅に来ないで、一人で新井駅で見送ってくれた。やはり、生徒というものは純情なものだなという思いを抱いて上京した。


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十一 内務省勤務と病床生活

内 務 省 勤 務
五月一日付で、造神宮属兼内務属の辞令を頂いて、勤務することになった。定員の関係で、造神宮属兼内務属の辞令であるが、実際は内務省神社局総務課勤務であった。造神宮使庁というのは伊勢神宮の造営のための役所で、内務省庁舎の一番上の階にあって、その屋上には柵があって入ることができないようになっていた。神宮関係の調度などが納めてあり、造営関係の職員が勤務していた。

神社局は三階で、局長は飯沼一省氏、課長は石井政一氏であった。課長は別室で、現在の局長室のように一人でおられた。総務課の部屋には、安田巌事務官が大きな青ラシャ張りの机にサイドテーブルのある席におられ、その前に属官の席が並んでいた。飯田祭務官の席もあった。神社局には各課に神棚が祀ってあった。

私の隣には、今年四月に就任した有資格の小野政男君が席を並べていて、好都合であった。毎日出勤しているが、事務は官幣社とか国幣社とかいう神社の供進金とか祭祀とかの事で、ベテランの属官が担当しているので、格別の仕事はなく、一般の役所の事務の見習をした。安田事務官から将来の幹部としての勉強をするように、いろいろ配慮して指導していただいた。

当時は内務省、厚生省、府県の幹部は内務省が採用し、配置していた。東京在勤の内務省関係見習の者は町村人事課長を中心に同期会をつくり、時々集まって懇談したり、各局長などを中心にお話を承る会などをやっていた。私も町村課長の配慮でその会に入れていただいた。私のように田舎出の者も少しも分け隔てなく、親切に交際していただいた。この十五年採用の組は、町村さんを会長に百竜会という名をつけ、以来現在に至るまで、東京在住の人を中心に兄弟のようにして会合を続けている。

私は内務省に勤務することができ、将来の地位も保証された。家は蒲田区道塚町の知人の貸家を借りて家族を迎え、毎日内務省に通勤した。役所の仕事を勉強するとともに、将来の官吏としての見習もすることができ、長年の不安定の気持から落着いた生活に入ることができた。そして後に述べるように、願行寺の富永半次郎先生の講義にもできるだけ出席した。

当時は非常時といっても、役所のわれわれには格別のことはなかった。この年の夏は内務省の夏期鍛錬の合宿が千葉県の保田海岸で行われた。私も参加し、ちょうど同期の堀田政孝君、日原正雄君も一緒で、若返った気持で、大いに浩然の気を養うことができた。

肺結核で倒れる
八月二十九日に二男の敬信が生まれたが、家内は産後の経過も順調だし、赤ん坊も丈夫に育った。ところが、九月中旬頃から、私は身体の調子が思わしくない。少し休んでいるとよくなったと思うが、微熱があるようなので、医者に診てもらったら、少し静養した方がよいというので、時々休んでいた。夏中に実家に泊りに行っていた長男を送って、父が郷里から出て来たので、市内を案内などした。父は一週間位で帰った。十月末になると、三八度位の高い熱が出た。これはいけないと、床に就いて安静にしているが、なかなか下がらない。いよいよ結核の再発だと思ったが、どうにも仕方がない。絶対安静を守るしかなかった。

この年、十一月十日は建国二千六百年の記念式典が行われ、宮城前で盛大な祝賀の式が行われた。その前日に神祇院が設立され、私は神祇院属となった。祝典に参列の席も指定されていたが、病床にいて、ラジオで様子を聞くだけであった。

人生というものがままならぬものであることは、これまでもたびたび経験して知っているが、長年の苦労の結果、漸く洋々たる前途を望むことができると思ったとたんに、突然病魔によって、暗い渕に突き落とされたように感じた。

典型的な肺結核の熱型で、朝は三七度位だが夕方には三八度位の熱が毎日続き、夜にはぐっしょりと寝汗が出る。夜中に寝たまま寝巻を着換えなければならぬ。家内は幼い四人の子供をかかえて、産後の身体で看病もしなければならない。郷里から妹に来てもらって手伝ってもらったが、療養生活は大変だ。医者も時々来て薬をくれるが、安静にしている他に方法がない。

以前東京で入院生活をやった時もショックは強かったが、一人者のため困るといっても観念的なものだった。しかし、今度は大勢の家族をかかえての病気で、生活の責任がある。自分で考えても肺結核であると思うので、相当の期間療養を覚悟しなければならない。しかし、何と思っても仕方がないので、じっと安静にして耐えるしかなかった。

病気については前の経験もあるし、人生についても自分なりに修業したつもりなので、こんなことで負けてはならない。病気で寝ていることも、自分を考える修業の機会であるとも思うが、なかなか良寛和尚の「病む時節は病むがよく候、死ぬ時節は死ぬがよく候」というような訳にはゆかない。

私は神経質にいろいろと考え過ぎる性質もあるが、ぎりぎりまでゆくと諦めて腹をきめ、徹底的に安静を守ることにした。十一月から翌年二月までは絶対安静で、新聞や本も寝たまま読む。手紙も寝たまま、食事も大小便も寝たままである。

寒が過ぎる頃から熱が少しずつ下がり始め、それから三七度二、三分の微熱が続いて、ようやく平熱になったのは三月の末頃である。平熱がしばらく続いてから床の上に起きてみるようになった。床の上に座って眺めると、同じ場所でも寝ているのとはちがった空間のように思える。初めて畳の上に立つときは身体が重い石に圧しつけられたようだが、段々と馴れて少しずつ立てるようになる。

約半年間の絶対安静ののち、ようやく動くことができるようになった。布団は時々替えて乾すが、畳はそのままなので、畳を上げてみると、汗が浸透して畳は腐り、床板には水が溜まっていた。さすがにぞっとした思いであった。

五月の初め頃には少しずつ外に出られるようになって、その頃診察してもらっていた近くの本多医院で、レントゲン透視をしてもらった。先生は透視の結果、思ったより病巣の状態が良くなっているから、ゆっくり静養すれば全治するだろうと言われた。

昭和十六年に入ると、戦時体制は段々厳しくなって、東京では四月一日から米穀は通帳による配給制になり、生活物資も不足してきた。

その頃は公務員の医療共済制度もないし、給料も三か月以上続いて欠勤すれば半減されるので、相当長期になるとこのまま東京で療養を続けるのは困難になった。いろいろ考えた末に、加茂の大昌寺には以前奥様の療養用に建てた家が裏の森の中にあることを思い出して、西村大串先生に手紙を出したら、心よく貸して下さるというので、田舎に引揚げて療養することに決心した。

郷 里 で 療 養
荷物を少なくするためと、少しでも生活費をつくるために、これまで集めた本などは一誠堂に来てもらって、特別のもの以外は全部処分した。

こうして六月の初めに、蒲田の家を引揚げ、加茂町の大昌寺裏で静養することになった。大昌寺の家はお寺の裏の森の中にあった。静かで、部屋も三室あり、台所もあるので、静養には都合がよかった。長女の美恵子はこの春から道塚国民学校(四月に小学校が改称)に入学したが、加茂国民学校に転校し、長男の義信は大昌寺の幼稚園に入れてもらった。家内の実家の見附町が近いので、老母が時々来てくれた。農林学校からはきわめて親しい原沢久夫氏が時々見舞ってくれ、また林夫の遠藤庄平さんが時々来て親切に世話してくれたので、大して不自由がなく、ひっそりと療養生活を続けた。

しかし、冬になると寒い上に、雪が降ると子供達の出入りも困難になるので、家内の実家に引越すことにした。家内の家では、主人の弘一氏は新潟市の家におり、実家は老母と弟夫婦が住んでいたが、弟夫婦は見附町に家を借りて住むことにし、私どもの家族が老母と住むことになった。家内の実家は見附町つづきの田舎で、屋敷も広く、家も大きい。二階の南側の八畳を療養室にした。家族は下に住んでいるので、生活に不安もなく、療養を続けることができた。

こうして、一日の大部分は二階の南側の廊下に籐の寝椅子を置き、その上に臥して、窓外の景色を見ながら安静にしていた。だんだんと、体力もついてくると少しは本も読めるが、本は荷造りのまま物置に入れてあるので、二階の先代の本箱の中にある論語や孟子などの漢籍の木版本を読む程度であった。

時局はしだいに急を告げるようになり、十二月八日ラジオで対米英宣戦の布告と真珠湾攻撃が告げられ、翌日の新聞には、前面に大きな活字でハワイ空襲の大戦果が報ぜられた。次いで、十日にはマレー沖でプリンス・オブ・ウェールズとレパルズの二戦艦を爆撃によって撃沈したことが報ぜられた。そして、次々に海に陸に大戦果が報ぜられた。さすがに我が海軍だと感激した。しかし一方では、戦時統制が厳しくなり、田舎でも食料や生活物資も窮屈になってきた。

役所の方も病気欠勤が一年以上になるので、十七年一月には休職になった。休職になると、当時は給与が三分の一になり、経済的にも窮迫する。休職が一年たてば退職となるが、その間には健康を回復して勤務できるだろうと思って、療養に専念した。

冬が無事に過ぎ、春になると大分体力もつき、戸外で散歩もできるようになった。これなら、もうしばらくすれば役所の仕事もできるだろうと思い、新潟医大でレントゲン診断を受けたら、大分良くなっているから、無理をしなければ勤務も大丈夫だろうということであった。

そこで、病気中格別御心配をかけ、お世話になった町村様にお礼を申し上げ、今後のこともお願いしなければならないと思った。当時富山県知事をしていられたので、富山市に行き、知事公館に参上してご挨拶を申し上げた。町村様は親切にご配慮下さり、「心配ないから十分に健康を回復するように」とおっしゃって下さった。

汽車旅行をしても、格別異状もないし、越後も雪が消えたので、五月に私の実家に帰った。四、五日すると風邪を引いて、また熱が出た。これはいかぬと思って安静にしていたが、なかなか熱が下がらない。これはまたぶり返したと思った。

今度はさすがにがっかりした。ようやく治ったと思ったのに、また再発では容易でないと思ったが、安静に療養する他ない。大して高い熱は出ないが、平熱になるまではと我慢して寝ているのだから、自分では、病状はそう悪いとは思っていないが、村の人々は肺病で寝たきりになると、とても助からないと思うらしく、そうした噂は寝ていても感じた。

父 の 病 死
家で農事をやっていた弟の延安は軍隊に召集されて出征したが、出たっきり音信もない。私は病床に寝たきりだし、年をとった父は心労が重なって、夏頃から徐々に健康がすぐれなくなった。

秋になると、私は漸く平熱になったが、父はしだいに衰弱して床に就くようになった。そして当時、大詔奉戴日といわれた開戦一周年の一七年十二月八日、すっかり諦観をして運命に総てを委せるように、別に遺言らしいものもなく、静かに息を引きとった。

私も覚悟はしていたので、取り乱したりはしなかったが、長男に生まれながら、勝手に自分の道を歩き、前途の見通しも分らないでいる病気の身を心配しながら死んだ父の心中を思うと、何とも申し訳ない気持であった。また、一生の痛恨の思いでもあった。

ただ一つ嬉しかったのは、召集を受けて出征した弟の延安が父の死の一週間ほど前に、ひょっこり帰って来たことである。弟は満州事変の頃、現役で軍隊に行ってきて、今度召集され、朝鮮の辺りに待機させられていたが、軍の編成の関係で除隊帰還となったのであった。それで、子供は全部臨終に揃うことができた。

父は一生を村や部落のため尽くし、温厚篤実で人と争ったり憎まれたりするようなことのない人であったので、村からも部落からも惜しまれて、戦時中とはいえ大勢の人に送られ、立派に葬儀を行ってもらった。私は雪中を墓地までは行かれないので家で送った。

母はこうした時にはしっかりと落着いていて、少しも困った様子を見せない。そして、父も晩年には家政を整理しており、大した財産もないが、借金もほとんど残っていなかった。後には細々と農業をやっていくための、僅かの田畑と古い家が残った。

幸いに病気の方も安定し家の整理もついたので、雪が消えると、また明晶の家族のところに帰った。山本五十六連合艦隊司令官の国葬があり、その後長岡市で追悼の記念品陳列を見に行った位で、元気になった。

夏になると、また身体の調子が悪くなって、安静を守らなければならなかった。秋になると、下の弟の昭三が軍隊に召集された。昭三は補充兵で、軍隊に行ったことがないのだが、召集を受けて出征した。

秋には熱も下がり病状も安定したが、この頃になると田舎でも食料が窮屈になっていた。農業をやっていない家内の実家では、大勢の子供をかかえていて困るので、私は横根の実家で療養することにして、雪の降る前に横根に帰った。

実家では、裏の二階を片附けて病室にした。家は百姓をやっているので、米や野菜位はある。できるだけ栄養をとって、療養生活を続けた。

葉   隠
療養生活も三年余りになって、休職の期間も過ぎたので、役所の方は形式上自然退職になり、給料はもらえなくなった。全く進退窮まったと思った。しかし、安静に療養生活を一日一日と続ける他ない。こうした中で唯一の救いは岩波文庫の『葉隠(はがくれ)』であった。寝ながら夜具の中で手に持って読める文庫版はまことに都合がよかった。

葉隠は鍋島論語といわれ、佐賀鍋島藩士の山本神(かん)右エ門常朝(つねとも)が語ったことを同藩の田代陣基(たしろつらもと)が筆録したものである。鍋島藩主直茂、勝茂、光茂三代にわたる藩の事蹟、藩士の言行、武士の心得などを具体的に事実に即して説いている。巻頭には「武士道とは死ぬことと見付けたり」という言葉が出て来て、その言葉が一般には殺伐な封建的な旧思想のようにも言われているが、よく読んで見るとその一つ一つに、人間の真の生き方を示す知恵をちりばめて書かれている。武士の日常の心がけ、人情の機微というものが具体的な事実、行動を通して述べられている。武士のあり方、人間の生き方というものを徹底的に追及し体験した言葉が記されている。

山本常朝は子供のころ、光茂の小姓をしてから一代側近に仕え、光茂の死去に際し殉死を望んだ。しかし。当時、幕府は殉死追腹を厳禁しており、特に鍋島藩主光茂は殉死を強く禁じていたので、切腹は藩に迷惑をかけると思い、殉死をあきらめ、剃髪して佐賀の北方、北山の黒土原(くろつちばる)に草庵を結び、世捨人の生活をした。常朝は「迷っても死ぬ。悟っても死ぬ。死に貴賤の別もなければ、老若の別もない。人間というものは最後は必ず死ぬものだ。その死をどう迎えるか、平素から一生懸命考えておくことだ」と言っていた。しかし、自ら絶つことのできない生命がここにあり、それと対決する日々でもあった。

隠棲一一年目に、藩主綱茂の祐筆役を勤めた田代陣基という武士がここを尋ねて来た。そして、二人が互いにその人物を認め、一一年何一つ口に出さなかったことを、常朝は陣基に語ろうかと思った。

神右エ門が、

「浮世から何里あろうか山桜」
と詠むと、陣基がこれに応じて、

「白雲やただ今花に尋ね合い」
と返した。宝永七年(一七一〇)三月五日であった。

それから雨の日も風の日も、陣基は六年間この黒土原の草庵に通い続けて、常朝の話を書き留めた。この記録は整理して一一巻にまとめられた。しかし、それは誰にも見せないで、筐底にしまって置く約束であった。いつの頃からか、筆写されて藩士の間に鍋島論語といわれ、武士の心得の書として読まれた。

私も平常の時にこれを漫然と読んでいれば、その真髄はつかめなかったであろう。病中に、実家の煤(すす)けた二階に寝ていて、窓に降りかかる雪の音を聞きながら、骨に徹する孤独の中で、死神と対決するような気持でこの葉隠を読んでいると、その厳しい精神の火花のようなものがひしひしと身に迫ってくるのであった。生と死の間における人間の生き方というものを自分の上においてみると、現実のものとして考えさせられる。それは自分の心を読んでいることでもある。そして、自分の心というものが見えてくるように思った。

療養の初めの頃は病気が自分を苦しめているように思い、早く病気を自分から取り去りたい、ねじ伏せたいと病気を相手に格闘しているような気持であった。この頃になると、だんだんと落着いてきて、病気と健康を対立的に見ているのは一種の錯覚で、病気と自分は一つである、したがって、健康の時の自分はその時の自分として、病気の時はその時の自分として、最善の生き方をしていればよいと思うようになった。生きている時の自分は生きていることに全力を尽くせばよいので、死を考えることは妄想であって必要もないし、できもしないということがしだいとわかるようになった。

正法眼蔵の「生や全機現」「死や全機現」という言葉も、山本常朝が「武士道とは死ぬことと見付けたり」という語も同じである。道元は仏法の上で、山本常朝は武士としての生き方の上で同じことを述べているのだ。病気と戦うのではなく、自分と病気は一つだから病気の時は病気の自分として最善の生き方をすればよい。それ以外の生き方はない。死ぬ時は死ぬしかないと観念するようになった。ヒポクラテスの「世の中に病気というものはない。病人があるだけだ」という言葉である。勿論そうは思っても、生死一如といって悠然とする心境にはなれないが、運命というものに謙虚にならなければならないと思った。

年末には、町村様と同期の方々から多額の見舞を送っていただいた。こうした境遇において受けるご親切ほど身にしみてありがたいものはない。そのお礼かたがた病状を報告し、病気に適応した療養方法によって、何とか社会復帰の道を得たいと思った。当時の作業療法の行われているという療養所に入所したいと思って、そのお世話を依頼した。

その頃、同期の栗山廉平さんが軍事保護院の事務官をしておったので、いろいろとお骨折りをいただき、六月に茨城県の傷痍軍人療養所村松晴嵐荘に入所できるように取り計らっていただいた。

遠方であるが、思い切って入所する決心をした。期日を打合わせた上で六月二十八日に延安に送ってもらって上京した。

栗山さんはわざわざ迎えに出て下さって、家に泊めていただいた。東京に来てみて、戦局の重大さが自分にも肌で感じられた。栗山さんの宅に二泊させていただいて、七月一日東京から常磐線にのり、教えられたように石神駅で下車し、バスで夕方晴嵐荘に到着した。入荘の手続をし、看護婦に案内されて、割当てられた二宿の二号室に入室した。

この時、石神駅からバスに同車した新しい国民服を着た人品のよい紳士が、晴嵐荘前で下車されたので、ここのお医者さんかと思ったら、入荘する患者の小池欣一さんであった。小池さんは昭和十八年の内務省採用で、厚生省に勤務していたが、結核にかかり、入荘したのであった。以来在荘中から現在に至るまで懇意に願い、大変ご厄介になっている。


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十二 晴 嵐 荘

療 養 所 の 生 活
村松晴嵐荘は水戸市に近い石神駅から約四キロほどの海岸の松林の中にあった。現在は東海原子力センターがその地続きの隣に建てられたが、当時は一面の松林であった。村松は徳川光圀が水戸八景の一つ「邑松(むらまつ)晴嵐」といった海岸で、村松宿(しく)といって、日本三虚空蔵の一つという虚空蔵菩薩を祀ったお堂があるので有名であった。昭和十二年結核予防協会の事業として始められ、十二年には第一国立療養所となったが、当時は傷痍軍人療養所村松晴嵐荘となっていた。主に下士官以下の軍人が入っていたが、設立当時の関係からシビリアンの患者も特患として実費を負担して入荘を許されていた。患者としての取扱いは全く同じであった。

約十四万坪の敷地に千ベッドの療養施設が松林の中に建設され、病室は各宿舎に分れていた。私の入荘した二宿は大部屋五室、小室が五つほどあって、その間に医務室があった。大部屋は学校の教室のような板敷で、廊下から硝子戸を開けて入ると、両側に三つずつ、窓際に四つベッドが並んでいて、それぞれのベッドに床頭台が一箇ずつついていた。真中は板の間になっている。新入(しんいり)は入口の方から順次に、早く入った者が窓際のよい場所を占めていた。ここは娑婆の階級や地位ではなく、入所の時の年功序列で決まるのである。

同室の先輩の人々に挨拶し、一番入口のベッドに入って療養生活が始まった。朝七時に起きて廊下の洗面所で顔を洗い、軽作業の患者の配膳してくれるお膳を床頭台の板の上で食べ、午前二時間、午後二時間はベッドで安静する。看護婦が定時に検温と脈拍を計るだけで、別に薬もくれない。ちょうど学校の寄宿舎生活のようだ。戦局がますます厳しくなって食糧事情が悪い時だが、それにしても、療養所の食事の悪いのには驚いた。田舎では食料不足といっても、米の飯と鶏卵位はあったが、ここでは麦の入った米飯は上等で、時には大麦の代用に小麦が入ったり、じゃが芋やさつま芋と小皿に少しの飯があることもあった。副食もきわめて粗末なものだ。しかし、それも馴れてくれば当然と思うようになる。そして、療養を続ける中に、良くなる者も、悪くなって死んでいく者もある。一番大切なのは療養の心構えであることが分ってきた。

入荘して、二〜三日した最初の検診日に、「私はもう熱はないし、大分良くなったと思いますが」と直ぐに軽作業でもできるように思って言うと、「熱がない位で肺病が良くなれば、苦労はいらぬ。世間で肺病患者といっているのは、あっちの小室の方の者を言うのだ。大部屋の連中はだれも熱などはない。平気な顔をして騒いでいるが、なかなか治らないのだ。君も二〜三年寝ておれば何とかなるだろう。写真をとって、その中によくみてやるよ」と言われ、レントゲン写真を撮ってもらった。二、三年寝ていればと先ず気合を入れられた。

四、五日して荘長診察があった。荘長は木村猛明(たけあき)先生といい、自分でも相当重い肺結核の体験者で、人情に厚い立派な人格者であった。

木村先生は橋本先生と並んで、レントゲン写真を見て、独り言とも、橋本先生に話すとも思う様子で「うーんー、随分古いなあ、しかし、大事にしていたとみえて、左の方だけで、右はきれいだ。これは切れるかも知れん。まあ様子を見よう。」と言われた。しかし私は切るというのは何のことか分らなかった。

橋本先生に「薬は飲まなくってよいのですか」と聞いたら、「肺病に薬なんかないよ、新聞や雑誌に肺病に利くという薬の広告がでかでか出る中は利く薬がないという証拠だよ、ほんとうに利く薬が出れば広告など出なくなるよ」と言われた。なるほどうまいことを言われるものだと思った。ちょうど当時の肺病は今のガンのように、いろいろの薬があって、利く利かぬが問題になっていたが、ほんとうに決め手になる薬はなかった。療養所は風邪や腹痛には薬はくれたが、肺結核のための薬は飲ませなかった。

療養を続けているうちに、宿舎の空気もしだいに分ってきたし、肺結核というものの実態もだんだんと分ってきた。肺結核は初期に肺門や肺尖に小さな浸潤ができた時は、安静にして正しい療養をすれば、割合い早く治るが、浸潤が大きくなると病巣がおできのようになって中に空洞ができる。この肺の空洞が問題で、小さい間に病状が安定すれば、空洞に石灰が沈着して固まって治るが、ある程度大きくなるとなかなか治らない。空洞ができても安定し、進行しないでいる時は熱もなく顔色もほとんど変わらない。しかし、無理をすれば喀血したり、浸潤が広がったり、他に転移して、火事が大きくなる。安静大気療法による自然治癒を待つ方法とともに、この空洞を圧縮し、小さくする方法がいろいろ研究されていたのである。

一番簡単なのは気胸で、肋膜の中に空気を入れて病巣のある肺を圧縮して空洞を小さくし、そこに空気が出入りをしないようにする方法だが、これは私のように肋膜炎をやった者は肋膜が肥厚して空気が入らない。

胸郭成形手術
そこで、新しい方法として胸郭成形手術が行われるようになった。当時はまだ肺葉切除は行われなかった。成形は肋骨を切除して、肺を圧縮して空洞を縮小し、空気の出入を遮断する方法で、晴嵐荘で実施し、成績を上げていたのであった。当時は試験段階から他の療養所でも行われようとするころであった。「切れる」と荘長が言われたのは成形手術のことであった。成形には適応症があって、片肺が健全で、病巣が肺尖部で、しかも余り大きくなく、病状が安定していることが必要であった。

大部屋の患者でも、熱もなく平気な顔をしていても、大部分は空洞を持っている。患者はこれを金鵄勲章と言って、あれの勲章は雀の卵位だから治るとか、俺のは小指の先位だから間もなく歩行になるとか、あれはりんご位だからもう駄目だとか、思い思いのことを言っていた。

療養所に入ってみて、結核というものが想像以上にむずかしい病気であることが分かった。元気のようでも安静を怠って、碁を打ち過ぎたり、少し無理をすると喀血したり、発熱して小室に移り、間もなく死ぬものも多い。また、一〇年近くも大して悪くもならず病巣が安定して平気な顔でいても、菌が出て退荘できない人もある。二年や三年の療養患者はざらにある。窓際の方のベッドにいる長老組は長年の安静患者である。五号菌を出しても、顔色は大して悪くもなく、元気で部屋主然として文句も多い。そして、小遣稼ぎに安静時間以外は絽(ろ)差しなどをやっている。

病状が安定し、平熱が続き、病巣の状態がよくなれば、散歩を許され、毎日規則的に定まった距離を散歩し、四キロの散歩をやった後は家内軽作業になり、それを二か月位やると外気小屋に出て、農作業や手細工などをやる。こうして、作業訓練をやった上ではじめて退荘させるのである。木村荘長は結核患者の療法に安静大気療法を一歩進めて作業療法を研究・実施して、社会復帰に大きな成績をあげられた。それとともに、胸郭成形手術による治療法を進歩させたのである。

私は作業療法のことは前から聞いていたので、晴嵐荘に入り、作業療法を受けて、社会復帰したいと思ったが入荘してみてはじめて成形手術を知った。そして、いろいろ検査の結果、成形の適応症だから、手術を受けることになった。ちょうど現在のガン患者が早期に切開手術で治るように、成形のできるのは幸いの方であった。

成形手術は肺結核の治療にはきわめて有効な方法で、試験期から普及の段階まで来たといっても、当時でも手術の結果は死亡する者も多く、成功するか死亡するかは半々ということであった。手術を受けるには死を覚悟しなければならない。これまでも、時には病気が治らないのではないかと思う不安はあっても、その中には治るぞという信念のようなものがあり、死ぬと思ったことはない。しかし、今度ははっきりと死と対決しなければならない。生死は自分ではどうにもならない運命であると覚悟した。そして、荷物などを整理して、手術を受ける者の入る五宿に移った。

準備室で、大きなリンゲル注射をして、それから手術台に上がった。当時は麻酔術が進歩していないので、全身麻酔では心臓がもたない。それで、腰椎麻酔と切開の場所の局所麻酔だけで切るのである。手術台の上にうつ伏せになって、しっかり固定された。

手術は加納医官の執刀で行われた。加納先生は晴嵐荘の外科部長で、颯爽とした科学者らしい立派な外科の名手であった。後には木村先生の後を継いで荘長になられた方である。手術は電気メスで肩甲骨に沿って切るのがはっきり分かる。局部麻酔のため意識ははっきりしている。痛くはないが切られるのも血の流れるのも分かる。それから肩甲骨をはね上げて、筋肉を肋骨から離す音がカリカリと聞こえる。そうして肋骨を鋏で切る。肋骨は細いが硬いので力一ぱい切る。息がぐっとつまる。そして、肺を手で圧縮し、肉を元のとおり直して縫合するまでの経過がはっきり分かる。全く命をかけた勝負である。手術をする人も大変だが、患者も命がけでじっと我慢する他ない。手術を終わると仰向けに寝台車に寝かされて病室に移される頃は急に緊張がゆるみ、意識もぼんやりする。加納先生の手術は二時間位で終わったと後で聞いたが、その時は時間の観念などはなかった。

夕方、手術をされた加納先生が病室に来て、脈をとって顔色を見て帰られた。三日位はそのまま寝たきり、身動き一つできないし、声もほとんど出ない。少しでも動けば全身が痛い。しかし、手術は勝負が早いので、三日もすれば傷の痛みも大したことはなく、少しは動ける。一週間位でベッドの上に起き上がれる。やっと助かったという実感が湧く。そして敷布団をかえたのを見ると、血液や漿液が三枚の布団を通して藁布団が濡れていた。

成形はフィフティ・フィフティの勝負だということが、手術病棟にいると実感された。私の入った部屋の患者は幸いに成績がよく次々に入る人が皆成功したが、隣の部屋は次々に死者が出た。手術を終えた患者の運搬車が来てしばらくすると、手術をした医官が様子を見に来られる。一回の診察だけだと大丈夫だ。ところが、調子が悪いと夕食後にもう一回来られる。こちらの部屋では、今度は危いぞと言っていると、夜中の一時頃には看護婦などの出入が多くなった、と思うと運搬車がキリキリと廊下を軋(きし)って行く。ああ駄目だなと思っていると、隣室の患者は霊安室に移されたのだ。こうして次から次に死んで行く。

私は第一回の手術で五本切除したが、一か月ほどしてから木村荘長と加納先生とが相談して、もう二本切ることになった。一回に切るのは五本が限度であるので、念のためもう二本切ることになった。今度は前の経験もあり、二本ということで余り不安はなかった。七本切ると肩甲骨が落ち込んで平たくなり、肩の形は悪くなった。

この頃には、戦局はますます切迫して、十一月二十四日B29の東京空襲があり、手術後三日目というのに、病室から担架で松林の中に避難させられた。しかし、手術後の経過は良好で年末には手術病棟から元の二宿に帰った。

成形手術は病巣を切除するのではなく、肺を圧縮して、空洞を縮小し、かつ空気の出入するのを閉鎖するので手術後は一般患者より早く治癒する。その代り、肺活量は小さくなるが、再発の危険は少ない。

大部屋に帰り二か月ほどすると、散歩患者になった。この頃は敗戦の色が濃くなり、昭和二十年一月にはルソン島に米軍が上陸し、三月には硫黄島が占領された。東京にはB29の襲来がだんだん多くなり、三月九日の東京の大空襲が報ぜられた。空襲警報が出ると松林の中に退避させられるが、段々馴れてくると、上の方に真白な姿を見せて飛ぶB29も大して恐ろしくなくなった。

外気小屋の生活
散歩は順次距離を伸ばし、二か月ほどで規定の毎日四キロの歩行が終わり、軽作業になった。病室の掃除や配膳の作業の手伝いなどをやって、初夏の頃に外気小屋に出た。外気小屋は松林の中に点々と四畳半位の小さな小屋があり、三方は蔀戸(しとみど)になって開き放しにし、入口に戸がある。ベッドは二つあるが、私は一人であった。

この頃になると、本土決戦が呼号されて、鹿島灘も敵の上陸地点の一つとして、今の原子力センターのあたりには兵隊が濠を掘ったりして、警備していた。晴嵐荘も大部分の患者は栃木療養所に移され、外気患者と重症で移送できない者だけがここに残った。外気患者は松林の松の木を伐(き)って防空壕を造り、避難所とした。

外気生活は戦時中とはいえ、元気な回復期の患者で若い兵隊さんだけに、なかなか愉快である。軽い農作業をやり、食事は食堂に通って食べる。食事の悪いのは困るが、時には要領のよいのが村に食物を買出しに行って何かを見付けてきてくれることもある。松林の中から松露を取ってきて、洗面器で煮て食べることもあった。

戦局はいよいよ急迫し、東京をはじめ、毎日のように各都市が空襲で焼かれている。水戸も焼けた。松林の中から見ていると、焼夷弾が花火のようによく見え、町は真赤に焼けている。

毎日のようにB29が鹿島灘から、われわれの頭の上を通って本土空襲に行くのを見ていると、馴れてくる。しかし、そのうちにB29だけでなく、艦載機の銃撃もあるようになると、注意が必要になった。

七月十日の機動艦隊の襲撃の時はさすがに激しかった。日中にグラマンが療養所を銃撃した。一同は防空壕に避難して、怪我人はなかった。その夜に空襲警報が出た。作業服に着換えて、防空壕に飛び込みながら見ると、日立市の方でドン、ドンと音がして閃光が上がる。防空壕に入ると、ビリビリという大きな地響きがした。爆撃かと思ったが、日立から水戸の常磐線沿いに艦砲射撃を受けた音であった。われわれのところは海岸に近いので、弾道の下になって助かったことが翌日になって分かった。

八月十五日には、正午に職員と作業患者一同が講堂に集まり、ラジオで終戦の詔勅を拝聴した。戦争は終わったと思ったが、負けたのだと分かると、さすがに涙が出た。

敵前上陸の心配はなくなり、付近の兵隊さんはそれぞれの郷里へ帰って行った。しかし、われわれ患者はそのまま外気の生活を続けた。

アメリカ軍の進駐や軍人の復員が行われ、占領行政が始まった。いろいろの噂や情報が入ってきて、職員や患者の間にもいろいろの話が伝わってくるが、こうした時は落着いて様子を見ることが第一と思って、外気生活を続けていた。

木村荘長は早朝、外気患者の有志を集めて『菜根譚』の講義をされた。菜根譚は明の洪自誠の著で、人生を謙虚に生きるための知恵を説いた達人の書である。木村先生は前にも述べたように、自分でも闘病の経験をもった精神家で、精神修養の重要なことを職員や患者に教えられ、『菜根譚』を通じて結核患者の社会復帰後の生活態度を説かれた。

私は以前に病中で『菜根譚』を読んだこともあるので、喜んで参加した。

先生は「結核は臨床症状がどんなに良くなっても、肺やその他の場所に病巣が治らないで残っているのが普通である。危険性の多少は病巣の性質、大きさ、体質、年齢の他、その人の広い意味の身心両面にわたる生活状態のいかんによって定まるわけである。胸郭成形を受けた患者は術後自然治癒が進むに従って再発の危険は少なくなる。術後五年を経た後の生存者のその死亡率は一般健康者と大差がないようだが、結核患者は社会復帰後は自己の職務に専念し、他のあらゆる欲望を節し、無用のことに身心を労することなく、慎み深く、勤労を続けることが大切である。パウロのように常に喜び、常に感謝し、常に祈る心がなければ、生活はゆきづまることが多い。結核患者は療養期間に精神を鍛えられ、何物かをつかむ機会に恵まれることは病苦のありがたい余慶と考えて、誠実な人生を送ることが大切である。」と懇々と教えられた。

私も社会復帰ができたら、この教えに従ってできるだけ世の中の役に立つようにしたいと思った。そして、手術に際し一度覚悟したので、今後の人生は余慶と考えて、職務以外の無用のことに身心を労せず、少しでも世のためになるように働きたいと考えた。

こうして軽作業も終わって、役所の仕事なら差支えないということで、十一月初めに退荘した。

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